薬学と私
第86回
有機合成化学と薬学
私に薬学を語る資格があるかどうかは甚だ疑問ですが、人間一寸先のことは分からないということを体験した者として、若い方々のこれからの人生に何らかの参考になればと思い、本コラムに執筆することにしました。
中学の理科の実験で先生にほめられた私は、ひょっとしたら自分は化学に才能があるのではないかと思いました。高校に進学してからは、当時脚光を浴びていたポリーマーの研究をしようと、工学部の高分子化学科を受験するつもりでした。ところが、高校2年の頃に単純な化合物(モノマー)を際限なく重合させることが本当に面白いのか?という迷いが生じたのです。その頃、近所にあった名古屋大学農学部の宗像桂教授(農薬化学)は、画家である父に絵を習うため、毎週我が家に来ておられました。絵を描き終わると、いつも酒宴が始まるのですが、酔っ払った宗像先生にどんな研究をされているかを尋ねてみました。先生は、作物につく害虫の一種であるメスの蛾が発散する化合物(フェロモン)に誘引されて、オスの蛾が遠くから飛んでくる現象について、化学構造式を書きながら面白おかしく説明してくださいました。「これだ!」と思った私は即座に「先生、私を弟子にしてください」と言って、名大農学部に行くことを決心したのです。これが私のターニングポイント#1となりましたが、最大のターニングポイント#2は4年後にやってきました。学生実験室で実習をしていた学部3年の時、生物有機化学研究室の岸義人助教授が私のところに来られ、「僕のところに来たら君の将来はバラ色になる」という調子で勧誘されたのです。私の第一印象は、こんな自信過剰な人は見たことがない、というものでしたが、岸先生の魅力に取り憑かれたことも事実で、結局、先生の下で研究することにしました。与えられた卒業研究テーマは、有名なフグ毒テトロドトキシン(TTX)の全合成研究でした。全合成とは、容易に得られる市販の化合物から、自然界に存在する(興味深い)有機化合物を合成する研究で、合成経路の独創性、高効率性、そして実用性が求められます。当時、世界最先端レベルのTTX全合成に参加し、門前の小僧的に有機合成化学を学んだのですが、反応機構を考えながら分子を作っていく過程が面白くて、夢中になって実験を続けました。修士課程2年の時に岸先生がハーバード大学化学科の客員教授となり、私も同行して1年間の留学生活を送りました。単語を知っていても通じない英語のもどかしさ、見るもの聞くもの全ての珍しさ、講義のレベルの高さなどなど、とても貴重な体験をすることができました。帰国した翌年(1974年)には、教授となった岸先生に従ってハーバード大学の大学院生として再渡米しました。講義中に学生が発する質問に、「何でそんな事まで知っているのか」と最初は圧倒されていましたが、「負けてたまるか」と発奮して努力したことも事実です。研究テーマとしては、中南米に棲む矢毒ガエルの皮膚に存在する神経毒の実用的全合成に取り組んだ後、微生物が産生するグリオトキシンという、小さいながらも非常に合成困難な化合物の全合成に成功して博士号を取得することができました。岸教授室での2時間にわたる博士審査会の副査がWoodward教授とCorey教授という二人のノーベル賞受賞者というのも懐かしい思い出です。その後、博士研究員として岸研究室に残り、有名な抗がん剤であるマイトマイシンC(MMC)の世界初の全合成や、17個のキラル中心をもつ抗生物質モネンシンの全合成に従事しました。日本に帰る選択肢もあったのですが、自由な環境の中で自分の力を思う存分試してみたいと思い、1978年の夏にテキサス州ヒューストンにあるライス大学化学科の助教授となりました。アメリカの大学は駆け出しの助教授でも一国一城の主で、成功するのも失敗するのも自分の力次第なのですが、それから17年間研究と教育に熱中できたのは幸せでした。ライス大学では、主として窒素原子を含むアルカロイドと呼ばれる天然物の全合成研究を行いました。特に知られているのはMMCの効率的な合成法を確立したことですが、他にも多くの医薬に存在するアミンの合成法やインドールの合成法も開発しました。そして1995年、東京大学薬学部に赴任したのがターニングポイント#3です。薬学部に在籍して初めて真剣に創薬科学を意識したと言っても良いかもしれません。
薬は主として細胞表面に存在する「受容体」というタンパク質に作用して細胞の働きを制御したり、酵素というタンパク質の機能を制御することで効果を発揮します。現在、市場に出回っている医薬の大部分は有機化合物ですが、三次元の構造をもつタンパク質と効果的に相互作用させるためには、特定の三次元構造をもつ有機化合物を合成する必要があるのです。また、これはよく知られていることですが、薬を作るためには有機化学、生化学、生物物理化学や遺伝子工学など、様々な研究分野の協同作業が必要で、有機合成化学者である私の役割は、医薬として役に立つかもしれない有機化合物の効率的な合成法を開発することです。事実、私の研究室の出身者の過半数は製薬会社に就職し、良い医薬を世に出そうと頑張っています。私自身は5年前に大学を退職し、今でもいくつかの製薬会社のコンサルタントとして、創薬に関わる有機化合物を効率よく合成する方法を考えていますが、何歳になっても「モノづくり」は面白いな、と実感しています。若い皆さんも、薬学には様々な研究分野がありますので、前を向いて一所懸命に努力すれば、「これだ!」と思う道が必ず拓けてくることでしょう。