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薬学と私

第71回
患者さんのための
レギュラトリーサイエンス

一般社団法人くすりの適正使用
協議会 理事長
俵木 登美子 氏

はじめに

 私は薬学部を卒業してから37年間、厚生労働省、独立行政法人医薬品医療機器総合機構などで勤務したあと、2018年7月に退職し、現在は一般社団法人くすりの適正使用協議会に勤務しています。私が通ってきた道を振り返ってみたいと思います。

薬学部を目指していたころ

 中学1年の夏に父が脳卒中で突然亡くなりました。私が大学受験をした1977年頃の女子高生の大学進学率は15%程度と低く、しかも母子家庭の私が大学に進学することには親戚一同から反対されました。それでも母は、私に大学進学を勧めてくれました。薬学の道へ背中を押してくれたのは母でした。東大では3年進学時に学部が決まりますが、私は大学受験時にすでに薬学部と決めていました。ただし薬学という学問のことを知っていたわけではなく、高校の図書館でワトソンの著書「二重らせん」を読んですっかりDNAに魅せられてしまったからでした。薬学部に行けばDNAの研究ができる、と信じて受験し、4年生の研究室配属で夢叶い、当時DNA複製の研究を行っていた故山田正篤先生の生理化学教室に配属になりました。しかしながら、真理の追究である研究は緻密さの足りない私には簡単ではありませんでした。私は研究室配属から3ヵ月で自分に研究者としての素質がないことを思い知りました。残念ながら女子高生の頃の夢は破れましたが、薬学部で学んだ「科学的思考」、「論理的思考」はその後の私の軸になったと思っています。

厚生省(現在の厚生労働省)に入って

 私が学部を卒業した1981年は、まだ男女雇用機会均等法もなく、男女は採用、初任給において明らかに差がありました。当時の厚生省には薬学出身の女性職員は10人程度しかおらず、その年は「女性は採用されない」という「噂」が流れていましたが、女性の先輩たちが実に生き生きと働いていること、行政には圧倒的な情報量があること、そして何より国家公務員には男女の初任給にルール上の差はないことから国家公務員を目指すことにしました。そして幸運にも「噂」に負けず採用していただき、それから37年もの間、働かせていただきました。

 厚生労働省では、医薬品・医療機器・再生医療等製品の承認審査や市販後の安全対策、農薬・食品添加物の評価・基準策定などの業務に従事しました。特に医療機器・再生医療等製品の承認審査、医薬品の安全対策に長く関わりました。医療機器規制の抜本的な見直し作業や、欧米で使える医療機器が日本で使えないというデバイスラグ問題に奔走したこと、日本で初めての再生医療製品(当時は医療機器に分類)の承認に関わったこと、医薬品の市販直後調査やRMP(医薬品リスク管理計画)などの新しい市販後安全対策の仕組みの構築に携わったことは忘れられない経験です。

 行政官の仕事は、現場の薬剤師さんの仕事とは違って、患者さんからお礼を言われたり、患者さんの笑顔を見たりすることはできませんが、承認に関わった製品で命を救われた患者さんが必ずいる、安全対策を講じた製品で副作用被害に遭わずにすんだ患者さんが(誰にもわかりませんが)必ずいると信じることが支えでした。

レギュラトリーサイエンスに携わって

 思い返してみると私は37年間、医薬品や医療機器、農薬、食品添加物という「モノ」のベネフィット・リスク評価をしてきたわけで、それはすべてがレギュラトリーサイエンスでした。

 新しい医薬品、医療機器、再生医療等製品には、その技術が革新的であればあるほど、医療の現場からの期待が大きく、一方で未知のリスクがあります。リスクのない製品は理想ですが、そんなものはありません。医薬品等を承認する国の仕事として求められるのは、医薬品、医療機器、再生医療等製品のリスクを可能な限り明らかにして、可能な限り低減して、しかも可能な限り早く医療の現場に提供することです。リスクを明らかにするには実は時間がかかり、迅速な提供とは相反します。未知のリスクを持つ新しい技術をいかに早く患者さんに届けるか、そのために、どのように評価して、どのような情報をつけて、どのような安全対策を講じればいいのか、それは責任を伴う難しい判断です。その判断は「科学」に基づいたものでなければなりませんが、すべてが科学的に説明できるわけではありません。未知の部分を抱えてその時の最善の判断をすることが求められます。それがレギュラトリーサイエンス、すなわち調整の科学なのです。

 市販後の安全対策も同様です。市販後に表れてくる副作用や不具合を限られた情報の中でベネフィットと比較較量し、新たな安全対策を講じていく、これがレギュラトリーサイエンスです。

 レギュラトリーサイエンスは、科学技術を患者さんのために活用するための評価の科学、判断の科学です。この評価、判断を行うために、私にとっては薬学で教えられたことが役に立ってきました。それは、データや事実を理解する力、必要な情報を収集して評価する力、起こりうるリスクを想像する力、論理的に考える力です。

働くうえで気を付けてきたこと

 薬学部を卒業して以来、薬学で学んだ論理的な物事の考え方を基礎にして長く働いてきて、今も好きな仕事をさせていただいています。多くの先輩たちに仕事のやり方、生き方を教えていただき、それを大事にやってきました。その中で、私が働くうえで基本的に大事なことは次の2つだと思っています。

①ぶれない判断の軸を持つこと
 仕事をするということは次々に判断を求められることであり、効率よく仕事を進め成果を上げるためには迅速な判断が必要です。そのためには、自分の判断の軸をしっかりと持つことが必要です。私は常に「これは患者さんのためになるのか」を軸としてきたつもりです。

②自分を一番大切にして健康管理には責任を持つこと
 仕事をするためには、体も心も健康であることが必要です。誰も他人の健康状態にはなかなか気がつきません。自分で自分の健康管理を行うことが働く人の基本だと思います。

 現在、私は(一社)くすりの適正使用協議会で、中高生向けのくすり教育の支援、患者さん向けの医療用医薬品情報「くすりのしおり」の提供、一般の方向けの医薬品に関する啓発資材の普及などの仕事をしています。ICTの進展により、患者さんやその家族の方々が医療、医薬品に関する情報に自由にアクセスできる時代になりました。信頼できる情報をこれからも発信していきたいと考えています。

 薬学を学んだ若い皆さんには沢山の可能性が開かれています。ご活躍を期待しています。