薬学と私

第68回薬剤師の新たな職能:スポーツファーマシスト

元東京理科大学 教授,
東京都薬剤師会 相談役,
東京薬科大学 理事 
原 博 先生

はじめに

 最初にどのような経緯で私がスポーツファーマシストになったかを説明します。
 2006年(平成18年)、長年勤めていた東京理科大学を定年退職しました。
 その数年前から薬学教育は慌ただしく揺れ動いていました。2002年に日本薬学会により薬学教育モデル・コアカリキュラムが、2003年には文部科学省により実務実習モデル・コアカリキュラムが作成され、薬学教育の内容の定量化により、2004年、衆・参本会議で薬学教育の六年制延長が決まり、大きなターニングポイントを迎えたからです。そして2006年の春、薬学六年制がスタートしました。各薬系大学では手探りのところはありましたが、モデル・コアカリキュラムに沿って教育が開始されました。しかし、目玉となる参加型実務実習については全く新たなものであり、特に実習指導薬剤師の養成はまだまだ不十分の状態でした。東京都薬剤師会(都薬)でも必要に迫られ、本格的に認定実務実習指導薬剤師の養成事業にとりかかることとなりました。モデル・コアカリキュラムの作成や大学教員・薬剤師の六年制教育への対応に携わっていた私は、同2006年、養成事業に従事する役割として声をかけていただき、都薬の理事となりました。
 有機化学が専門で薬剤師としての実務経験のない私にできることは教育経験を活かすことでした。2010年に実務実習がスタートする頃には指導薬剤師の養成事業は軌道に乗り、時を同じくして、2013年に開かれる東京国体のアンチ・ドーピング活動に都薬も参画することとなりました。
 このような流れで、私は都薬の役員としてアンチ・ドーピング活動に関わり、スポーツファーマシストへの道に足を踏み出すことになったのです。

薬剤師のアンチ・ドーピングへの関わりとスポーツファーマシストの誕生

 日本における薬剤師のアンチ・ドーピング活動は、2003年の国体からドーピング検査が実施され、開催県の静岡県薬剤師会が「薬局におけるアンチ・ドーピングガイドブック」の作成などの対応で尽力したことが始まりです。次の年の埼玉国体から日本薬剤師会(日薬)にアンチ・ドーピングに関する特別委員会が設置され、その年の開催県の薬剤師会を中心に脈々と活動が受け続けられてきています。
 このような薬剤師の活動が評価される流れの中で、薬剤師の職能をさらに拡大させる目的で、2008年に日薬と日本アンチ・ドーピング機構(JADA)との協調により、スポーツファーマシストの認定制度が始まりました。スポーツファーマシストは薬物・薬剤に関する専門的な知識に加えてドーピング防止の知識も併せ持つ薬剤師です。競技者や指導者からの薬に関する問い合わせに応じて正しい薬の使い方の指導し、また、教育現場等においてはドーピング防止教育を通じて健康な生活やスポーツの高潔性を教えることができます。スポーツファーマシストってなに?と思われた方も、決してスポーツを行う薬剤師でないことがおわかりになられたことでしょう。
 私もアンチ・ドーピング活動を実施する上で認定は必須と考え、第一期のスポーツファーマシストとなり、東京都での第1号の認定証をいただきました。それ以来、都薬および日薬における活動に参加しています。

東京国体での活動

 2013年の東京国体でも都薬の役員、委員会メンバーおよび事務員のみなさんと一緒に準備と開催期間中の活動に積極的に関わりました。
 大会当日は主会場の味の素スタジアムで、委員会メンバー、都内のスポーツファーマシスト、JADAメンバー、およびアスリートと一緒に、選手たちの相談に応需しました。アスリートとして参加された室伏由佳さんが懸命に活動されるのを目の当たりにし、ドーピングがアスリートにとっていかに大きな問題であるかを知りました。

スポーツファーマシストの現状と未来

 現在、約8000名の薬剤師がスポーツファーマシストとして認定されています。しかし、せっかく認定をとったのに活躍する場所がないという声を良く聞きます。実際に競技団体や大学のクラブなどに直接関わっている人はまだまだ少ないのが現状です。しかし、一方で小・中・高等学校などでドーピング防止の授業などを行っている人が少しずつ増えています。また、あちこちで競技団体の専属スポーツファーマシストも誕生し始めましたし、薬局でのアスリートへの対応も増えてきています。実際に活躍している人の話を聞きますと、身近な人からの口コミや薬局店頭でアスリートから相談を受けたことなどによって活動のエリアが広がってきているようです。さらに、都薬のホームページへのアクセス数も飛躍的に増えています。これは見えないところで活動をしているスポーツファーマシストが増えている証だと思います。ぜひ、目を開き、耳を澄ませ、自分の考えをはっきり言うようにしましょう。スポーツがこの世から消えることはありません。それはルールの基に競われるものです。ドーピング防止に薬剤師の活動がますます重要となってくることは目に見えています。
 私自身も日薬のアンチ・ドーピング委員会の委員長として次の世代の指導者やスポーツファーマシストの活躍の場を広げるべく努力したいと思います。

日本アンチ・ドーピング機構(JADA)学術委員会での活動

 次は、JADAの学術委員についてです。メンバーが医師や日本体育協会関係の方ばかりの中に、2015年、委員として参加しました。ドーピング違反には10の項目がありますが、一番多いのは禁止物質の使用です。世界アンチ・ドーピング機構(WADA)が毎年発表する禁止表にはそれらの名前しか出ていません。それも一般名や慣用名、商品名であったり、時にIUPACの命名法に沿ったものであったりと一貫していません。なぜそれらが禁止されているかは医師のメンバーは良くお解りですが、その命名については正確には判らない場合が多いのです。ましてや同じ物質が違う名前で別々に載っている場合もあります。薬剤師は学生時代に有機化学を十分に学んでいますので、薬の化学構造とその命名に強いのが特徴です。毎年、WADAから提案される次年度の禁止表の改定案を検討する時には、全ての命名が適当か、同じものが記載されていないかチェックしているのです。

オリンピックムーブメントのなかで

 2014年のソチオリンピックにおけるロシアの組織ぐるみのドーピングは世界を驚かせました。2020年東京大会ではドーピングのないクリーンな大会の実現に向けて国をあげての取り組みが始まっています。日本スポーツ振興センター(JSA)を中心に進められた「アンチ・ドーピング体制の構築・強化に向けたタスクフォース」の会議で、私は薬剤師の代表として意見を求められました。それらを集約して昨年(2018年)「スポーツにおけるドーピングの防止活動の推進に関する法律」が施行されました。その基本的施策のひとつに「文部科学大臣から関係行政機関の長に対する情報提供等の協力の要請(15条2項)」があります。その具現化に税関との協力が想定されたことから、税関でチェックする「輸入してならない貨物」と禁止物質の相関について調査を求められました。独りでは間違いがあってはならないと思い、城西国際大学の石崎教授と山口東京理科大学の田村講師(当時、城西大学)に協力を依頼し、活動を始めました。最初から予想はしていたのですが、同じ覚醒剤や興奮薬でもWADAの禁止表に乗っている名前と税関が取り締まる物質では名前が異なるものもあります。そこで全化合物の化学構造式を描くことによってその同定を行い、同一物質かどうかを確認しました。その結果、輸入してはならない貨物の約7割の化合物が禁止表のホルモン調節薬及び代謝調節薬、興奮薬、麻薬、カンナビノイドの項に掲載されている禁止物質に該当することが確認されました。ここで声を大きくして言いたいのは、最終的に同一物質かどうかを決めるのは化学構造式です。まさに、化学構造こそが同一物質かどうかを決める指紋のようなものです。薬学教育の中でその基礎である化学がいかに大切かを改めて知りました。

ドーピング問題と薬学教育

 もうひとつ薬剤師の皆さんにお話ししたいことがあります。六年制教育を受けた人達の国家試験にはドーピングに関する問題が出題されています。しかし、そこで問われているのは禁止物質であるか否かや、薬局店頭での簡単な対応についてです。大学で学んだ薬理学などが十分に反映されていないのです。それでなくとも国家試験対策は大変なので、ドーピングに関してはコアカリキュラムにあるから1題ぐらい出題しておけば良いかという姿勢が見えています。これでは学生もそのレベルの丸覚えで良いと思うのは当たり前です。例えば、インシュリンは禁止物質なのですが、その理由がわかりますか? インシュリンは骨格筋においてグルコースの利用とアミノ酸の合成、貯蔵を促進して、結果的に蛋白合成を促進する作用を有しています。大学時代に薬理学でインシュリンが代謝調節を司ることを学習しているのですが、ドーピングと関連づけて学んでいないのです。薬学教育と社会の変化に乖離がある一例のように感じます。文部科学省から医学・薬学教育の中でドーピング防止に関する教育の充実が通達されています。薬害問題と同じように、しっかり教育プログラムの中に取り入れてほしいと思います。

おわりに

 今、2020年のオリンピック村でボランティア活動をするスポーツファーマシストの募集が最終段階にきています。病院での実務経験と英会話が必須ですが、興味ある人はぜひ応募してほしいと思います。社会が自分を必要としている時こそ飛躍の時かもしれません。そこから思いもよらなかった活動領域が広がっていくことでしょう。
 私の場合も自分から求めて薬剤師会の活動に参加したわけではありませんでしたが、いただいた機会に探究心を持って積極的に関わることでここまできました。
 変化する社会のニーズが皆様の登場を待っています。皆様の活躍を心から期待しています。