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薬学と私

第89回
くすりづくりを目指した薬学研究

岐阜薬科大学 名誉教授
永澤 秀子 先生

科学者になること

 子供のころ住んでいた地域では、土曜の午後に区内の小学校高学年を集めて科学教室が開かれていました。私は毎週その教室に通い、さまざまな実験に挑戦できるのを心待ちにしていたものです。驚いたことに、その活動は現在も「みなと科学教室」として続いていることを最近知り、50年以上前にすでにこうした先駆的な取り組みを行っていた地域の理科の先生方には、深い敬意と感謝の念を抱かざるを得ません。限られた設備と資源の中でも、子どもたちに科学の魅力を伝えようと工夫を凝らしてくださった先生方の熱意は、幼い私の心に強い印象を残しました。その体験は、科学の不思議さと実験の楽しさを肌で感じる貴重な機会となり、やがて「科学者として生きたい」という憧れへとつながっていきました。 中でも印象深かったのは、身近な物質を用いた結晶化の実験です。溶液の中から少しずつ姿を現す美しい結晶に、私は大きな驚きと感動を覚えました。その折に参考書として紹介された『結晶の科学:物性の神秘をさぐる』*を父に頼んで買ってもらいました。小学生には少々難解でしたが、結晶の基本原理や成長の仕組みがわかりやすい図とともに解説されており、物質が自ら秩序を生み出す神秘に強く心を動かされました。
 本コラムを書くにあたり、数十年ぶりに本棚からこの本を探し出し、改めて前書きに目を通したところ、当時は全く気づかなかった著者のメッセージに目が留まりました。曰く、読者は単結晶の美しさに喜びを感じるだけでなく、なぜそうなるのかを問い続ける探求心を育んでほしい。そして、その探求心に忍耐と注意力、思考力、自己の活動に対する感覚、さらに広い視野が伴って、初めて科学者になり得ると説かれていたのです。前書きにはまた、科学者の努力には二つの側面があるとあり、ひとつは、世界の一部分について実験を行い、その作用を明らかにすること。その実験が正しければ、誰がどこで行っても同じ結果が再現されなければならない。もうひとつは、思考と「精神的な目」による観察を通じて、他者の実験結果にも適用できる統一原理を導き出すことです。その原理に到達したとき、科学者は満足と幸福を覚えると同時に、新たな課題の探求へと歩みを進めるのだと記されていました。さらに、研究者の訓練のあり方についても言及されています。先人の実験を繰り返し、その効果を自ら再現することで実験技術を磨き、また先達の思考を追体験することによって知的な道具を身につけていく。その積み重ねを経て初めて、独自の思索と実践を展開することができるのだ――それらのメッセージが、研究生活を経た今の私には、確かな実感とともに胸に響きました。自分が迷いながら続けてきた営みは、間違いなく「科学者になる」ための努力であったと肯定されたようで、静かな感慨を覚えました。

秩序と対称の化学―キラルから創薬へ

 結晶の科学の終章「結晶の分類」では、まず塩素酸ナトリウムの結晶の偏光測定から、結晶がもつらせん性が紹介されます。続いてロッシェル塩や砂糖の結晶が取り上げられ、これらの非対称性分子は溶液中でも旋光性を示すこと、さらに生物体から得られる物質であることが述べられ、ここに、有機化学における対称性の概念=キラリティーが登場するのです。
 この本には(1968年当時)、右旋性と左旋性の分子を区別するには、「何らかの生命過程、もしくは生命過程による生成物を用いなくてはならない。」と記されていました。私が博士論文研究で「生命過程による生成物」であるL―プロリノールを用いた不斉ニトロオレフィン化反応を報告したのは、それから18年後の1986年のことです。一方で、1970年代には、生命過程を一切介さず、円偏光のみを物理的不斉源として利用する絶対不斉合成法の研究が進展しました。これは、宇宙空間における生命の起源を論じるうえで欠かせないホモキラリティー創成の機構に迫る手がかりとして、現在、大きな注目を集めています。こうして結晶から学んだ秩序と対称の問題は、物理、化学から生命科学へ、そして宇宙論にまで広がっていきました。著者ホールデンは、この本の最後にこう記しています。
 「さらに考えを進めれば秩序と対称ということが、自然科学のあらゆる分野において、まだまだ到達していないような応用性をもっていることに気づくであろう。」
 こうして不斉合成研究から始まった私の化学者としての歩みは、予言のようなこの言葉に導かれるように創薬研究へと展開していきました。

くすりづくりの科学―分子の形から機能へ

 ものづくりの化学は、とてもやりがいのある課題です。しかし、分子の機能に目を向けると、視野が一気に広がるのを感じます。薬学部でヒトとモノの両方を学んだ私にとって、分子のかたちと機能(生理活性)の両方に興味を持つのは必然でした。薬化学では生体がキラルな反応場であることを前提として、くすりの分子設計を学びます。右旋性と左旋性の分子が異なる挙動を示すのは、まさに生命の場が非対称だからです。その理解を助ける基本的な概念が「鍵と鍵穴理論」で、分子(鍵)の立体構造が、酵素や受容体(鍵穴)の構造に適合しなければ相互作用は起こりません。わずかな分子構造の違いで、薬効を発揮するか、全く効かないか、あるいは有害となるかが決まるのです。
 最後に、かたちも機能もユニークで魅力的な分子、エキノマイシンをリード化合物とする創薬化学研究について少し紹介したいと思います。これは、歴代3名の博士課程学生とともに進めてきたテーマで、彼らの優れた有機合成の腕前と惜しみない努力のおかげで、私にとってとてもエキサイティングな仕事となりました。エキノマイシンは、二環式オクタデプシペプチドという独特な骨格をもつ天然物で、対称性と複雑性を兼ね備えた美しい構造を特徴としています。また、強力な抗腫瘍活性に加え、低酸素応答に関わる転写因子HIF-1を阻害するというユニークな生理活性を持っています。私たちは、この分子に剛直な架橋結合を導入してコンフォメーションを制限した誘導体を合成し、それらの生理活性を大きく向上させました。(最終生成物はとてもユニークな結晶構造を見せてくれました!)さらにごく最近、ケミカルバイオロジーの手法により、これまで知られていなかった新たな標的分子が明らかになりつつあります。分子の形を変えて機能を探り、標的を探索し、新たな創薬へとつなげていく――これこそ、創薬化学研究の醍醐味です。このように、くすりをつくるということは、分子のかたちを設計するだけでなく、そのかたちを通して機能を生み出し、それを精密に制御する取り組みです。分子を合成する有機化学の面白さにとどまらず、その分子が生命の仕組みの中でどう働くかを問うところに、創薬研究の本質的な魅力があるのです。
 さて、わたしの分子のかたちと機能を追い求める挑戦は、このあたりでそろそろ一区切りとなりますが、薬学を学ぶ若い研究者たちがそれぞれの興味をふくらませ、未知の領域に果敢に飛び込んで、これからも新しい発見をもたらし続けてくれることを大いに期待します。

* A.ホールデン, P.シンガー著、崎川範行 訳、結晶の科学:物性の神秘をさぐる(現代の科学)、河出書房、1968