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活薬のひと

生体内合成化学治療 〜有機合成化学の分野から20年後に活躍する新しい技術開発を〜

東京科学大学物質理工学院 応用化学系・教授
理化学研究所開拓研究本部
田中生体機能合成化学研究室・主任研究員
田中 克典 氏

【研究の背景】がん治療の現状と抗がん剤開発の難しさ

 私達の生活を脅かす様々な疾患、例えばがんに焦点を絞っても、どれくらいの方が罹患され、この病と日々闘っておられるか、私が申し上げるまでもありません。世界中の化学者が、がんを治すために有効な薬を求めて努力しています。抗がん剤を開発するときにはまず、その薬の候補化合物を作り(合成)、そして実験室で効くかどうか検討しますが、実験室でいくら効果的であっても、その候補化合物ががん細胞に届かない、あるいは他の正常な臓器にも薬効が働き、副作用が出るなど、様々な要因で開発が止まります。1種類のがん細胞に薬を運ぶことのできる、抗体やナノ粒子がドラッグデリバリーシステムとして開発されていますが、実際の患者様のがんは「不均一」であり、多種類のがん細胞が集まってがんを形成しています。全ての患者様のがんに適応させるには、現実的ではありません。高い薬効を持つ抗がん剤を開発すると同時に、体の中で安定に、そしてがん細胞にのみ薬効を働かせなければなりません。私は薬(分子)を作る「有機合成化学」を専門とする化学者です。近い未来になんとか「有機合成化学」の力で解決できないものか?これまでのようにフラスコで薬を開発するのではなく、「有機合成化学」の力を使った全く新しい、何らかの方法で、と常に考えてきました。私達がこの12年間開拓してきた「生体内合成化学治療」の概略を述べるとともに、将来展望と夢を述べさせていただきます。

体の中で抗がん剤を化学合成する「生体内合成化学治療」を臨床の現場で実現する

 私達は、「生体内合成化学治療」という新概念を提出し、生きている動物の体の中で抗がん剤を作ることに挑戦してきました。これまでのように、投薬して病気を治すのではありません。抗がん剤の「もと(原料)」となる安全な分子を体内に入れ、直接がん部で薬を作って(合成)、そしてそのがん細胞にのみ薬効を効かせる技術です。体内のがん現地で直接、薬剤を調製することにより、副作用の問題を根本から解決して患者様を救うアイデアです。当初はほとんどの方からクレイジーなアイデアであり、決して実現はできないと酷評されましたが、13年以上に及ぶ皆様のサポートと苦労の末、私達はマウスの体内で様々な「抗がん剤(分子)そのもの」を触媒的に合成して治療することに初めて成功しました。私達の化学触媒(遷移金属触媒)は、血液内でも体内の臓器内でも全く失活せず、実験室のフラスコ内と全く同じように効率的に触媒反応を起こして、様々な抗がん剤を体内で合成することが可能となりました。さらに田中研で独自に開発した「糖鎖クラスター」を体内デリバリーシステムとして使用することで、この化学触媒を血中に投与するだけで、様々なヒト患者の「不均一な」がんにも選択的に到達させることを可能としました。一旦、ほんの僅かな触媒をがんに埋め込むだけで、数日間、患者様に即したいろいろな抗がん剤をテイラーメイドに合成・量産できるようになりました。今後、薬剤耐性を持つがんが出現した場合にも、即座にそのがんに適した抗がん剤を体の中で複数種類合成し、適当な分子を体内のがんの現場で探索して治療する革新的戦略、すなわち「体内創薬ライブラリー合成・探索研究」を実現いたします。
 さらに私達が次に目指しているのは、体内でポリマーを化学合成する研究です。血液に溶けないポリマーは静脈から入れると詰まってしまいますが、脳梗塞やがんの多量出血の際に、溶解性の良い低分子と触媒を注射し、疾患の現地で速やかにポリマーを合成して止血します。この挑戦的な研究によって、がんだけでなく出血で危篤な病状にある多くの患者様を助けることができると信じています。さらに近い将来には、血管の望む位置で望む機能性材料までをも触媒的に合成して、温度を測ったり、細胞を培養したり、あるいは体内で新しいエネルギーを生み出して循環させることも夢ではないと考えています。
 このように、私達の世界で唯一の体内触媒技術を起爆剤として、国内外で体内での有機合成化学を発展させます。さらにこれらの技術を臨床の現場に展開することにより、近未来には抗がん剤を体の中で最適化する「体内創薬研究」で医療分野の常識を変えることを目指します。

体内の疾患部位で生産される原料を駆使して効率的に「生体内合成化学治療」を実施する

 体内での創薬研究をより効率的に実施するためには、抗がん剤の原料をいつも注射しているだけではパフォーマンスが良くありません。がんの現地では、化学反応を起こせるほどの濃度で発生する化学物質が生成していますので、それを積極的に抗がん剤の原料に使用します。例えば私達は、「アクロレイン」という分子ががんでmM(ミリモーラー)の濃度で発生していることを発見しました。実験室の細胞株でも、がん患者様のがんでも、がんになると必ず高濃度になる初めてのバイオマーカーです。私達は、患者様のがんで発生するアクロレインを原料として使い、前述の体内での化学触媒反応と融合させることで、モデルマウスや実際の患者様のがんで診断薬や化学治療薬、あるいは理研の仁科加速器科学研究センターとの共同作業によりα線アイソトープ治療薬を現地合成して、効率的にがんを診断したり治療することに成功しています。
 この一例として、乳がんの手術の時に、患者様のがんで発生するアクロレインと反応させることにより、たった数分でがんであるか、そうでないかを確実に判断する診断薬を「患者様の乳腺組織」で直接作り、どんな種類の乳がんでも99%以上の精度で見分けることに成功しました。この科学技術により、乳房を切除する際、広範囲に渡って切除するのではなく、できるだけ乳房を残したまま必要ながん部だけを取り除くことがたった数十分で可能となりました。2024年4月に関西を中心とした多施設臨床性能試験(治験)を始め、患者様にいち早くこの診断薬を届けます。さらにアクロレインを体内での原料として、患者体内での乳がん治療薬の開発と臨床展開を急ピッチで進めており、10%にもおよぶ女性の疾患を救うための一般技術として確立します。
 さらに私達は、アクロレインだけではなく、がんでは別の異常代謝物が高濃度で生産されていることを見出しています。これらを体内での有機合成化学の原料として効果的に使うことにより、体内での創薬研究が活躍する時代を創っていきたいと考えています。

体内を循環し、疾患を見つけて治療し、最後に体内から脱出する「ミクロの決死圏」を体内での有機合成化学で実現する

 さらに私達は、上記で述べた体内での創薬研究と、田中研究室で最近開発した「化学的刺激で臓器間を移動する糖鎖クラスター技術」を巧みに組み合わせることにより、マウス体内の疾患をパトロールして診断・治療する世界初の技術開発に挑みます。体内を循環するパトロール分子により、上皮がんや大腸がん、あるいはウイルスを即座に見つけるとともに、その疾患に適した薬剤分子や機能性材料を触媒的に現地合成して効果的に治療します。治療が完了した後には、巡回させたパトロール分子を膀胱や大腸から排泄(脱出)させることにより、体内診断・治療が完結します。これまでにも、「ミクロの決死圏」を目指した研究が行われてきましたが、体内の特定の疾患の間を自在に行き来させ、複数の疾患で複数の薬剤を触媒的に合成・生産することはできませんでした。私達が独自に開発した化学的刺激や体内化学反応を駆使することにより、50年以上、映画の中での夢であった「ミクロの決死圏」を実現します。

【最後に】未来の化学治療 〜有機合成化学の分野から20年後に活躍する新しい技術開発を〜

 私は今後、もはや従来法を用いるだけでは良薬となりうる革新的な化合物の発見は難しいと考えています。一方で、「生体内合成化学治療」により、活性が弱かったり、副作用に悩まされて治療する時代は終わり、近い将来、副作用なく的確に疾患細胞のみをターゲットとした新しい薬剤を患者様のお手元にお届けします。「生体内合成化学治療」は、新しい分子を開発する技術ではありません。素晴らしい活性を持つ一方で、副作用や動態が悪かったために従来、見捨てられてきた化合物の可能性を、もう一度体の中で取り戻す「有機合成化学」によるルネッサンスです。生物の分野では、mRNAを体内に導入してワクチンを開発したり、体内で免疫細胞をがんを殺傷する細胞へと変更するなど、体内での創薬研究は既に始動しています。化学分野においても、体内での創薬研究が未来の治療戦略を変えることができると信じています。困っておられる患者様を目の当たりにし、私達化学者は実験室で論文を書くだけでなく、患者様を救う体内合成化学をどんどん開拓すべきであり、これが私達の使命であると考えています。