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活薬のひと

がんの中の低酸素のはなし

東京工業大学生命理工学院
学院長 近藤科江 先生

がんの不均一性としての「低酸素」

 大学院生博士課程で、がんの研究を始めて、それ以来がん研究を続けてきました。がんは90~95%が環境的要因で遺伝子に「傷」がついて発症するとされ、「生活習慣・生活環境」により「傷」の入り方は様々です。結果として発症するがんの種類や性質は患者ごとに異なり、「個別化治療」の必要性が高まっている理由となっています。大学院生の頃は、シャーレの中で培養したがん細胞を相手に「細胞ががん化するメカニズムを解明することで、がんの治療薬を開発するんだ」と必死に研究に取り組んでいました。しかし、研究が進み、遺伝子レベルの解析データが蓄積されるにつれて、それは途方もない挑戦であったことを知ることになりました。最近の38種類のがんについて、2,800例以上の全ゲノムシーケンス解析した国際連携による大規模解析結果は、気の遠くなるような「傷」の不均一性と多様性をデータとして明確に示しました(Nature 2020, https://doi.org/10.1038/s41586-020-1969-6)。「そもそも、がんは不均一なものであり、シャーレの中で研究できるような単純なものではない」と悟ったのが、10年ほどポスドクを続けた2000年頃のことでした。最初のがんの不均一性との出会いは京都大学放射線腫瘍学教室での「腫瘍内低酸素領域」との出会いでした。今でこそ、「低酸素」は常識的な腫瘍の特性ですが、当時はとても限られた研究者しか研究していませんでした。ひとつの腫瘍の中も不均一であり、創薬のためのターゲットは単一でないことを知ることになりました。「低酸素」が放射線治療の効果を減弱させることは、当該分野では常識でしたが、「低酸素」の生物学的意義や評価方法は確立されておらず、解析手法も限られていました。腫瘍に直接電極を差し込んで酸素濃度を測ることはできましたが、「物理的なアプローチ」で分かることは限られていましたし、何より治療法開発には不適切でした。 「解析方法が無いのであれば、作れば良い」と、にわかに始めた低酸素研究は、思わぬ2つの出会いによって、前進することとなりました。

低酸素誘導因子との出会い

 一つの出会いは、低酸素誘導因子HIFです。2019年のノーベル医学生理学賞は、「細胞の低酸素応答の仕組みの発見」に功績があったGregg L. SemenzaSir Peter J. RatcliffeWilliam G. Kaelinの3氏に贈られました。この対象となった研究成果は、私が腫瘍内低酸素領域の研究を始めてまもない2001年に発表され、極めて衝撃的でした。それまで、細胞の低酸素応答は、ミトコンドリアでの変化を含めて、様々な応答が報告されていました。1995年にSemenza氏によってHIF-1が発見されてから、低酸素研究は大きく前進することとなり、2001年にRatcliffeKaelin両氏から独立して発表された研究により、転写因子であるHIFの活性が酸素により制御される分子機構が解明されました。詳細は、ノーベル賞受賞後に多くの解説がなされましたので、ここでは割愛しますが、HIFの転写活性が「プロリン残基の水酸化とユビキチン-プロテアソームタンパク質分解システムを利用して有酸素時にはOFFに、低酸素になったら速やかにON」と、タンパク質の安定性によるスイッチの切り替えで制御されているという、何ともエレガントな機構を知ることになり、生物システムの巧みさに驚異と畏敬の念を持ったものです。細胞を低酸素から守るために、HIFによって誘導される遺伝子には、血管を作ったり、解糖系代謝を動かしたりする一連の遺伝子が含まれており、現在までに数百の遺伝子が同定されています。その中には、浸潤・転移、未分化性の維持、遺伝子の不安定性、免疫応答抑制など、がんの増殖・悪性化に深く関わっている遺伝子も多く含まれています。

 HIFは転写因子ですから、HIFが結合する塩基配列を利用したプロモーターを作成し、レポーター遺伝子を繋げば、HIFが活性化している細胞の可視化やHIF活性を定量化することができます。「低酸素」という物理的な要素を、「細胞の酸素応答」という生物学的要素と結びつける方法が手に入りました。しかし、これでは個体レベルでの研究はできません。

生体光イメージングと低酸素応答

 そこに、もう一つの出会いがありました。「生体光イメージング機器(in vivo imaging system)」です。今でこそ、世界中に普及した生体光イメージング機器ですが、当時は汎用機器が販売され始めたばかりで、日本でも導入が検討されている段階でした。学会で生体光イメージング機器を用いた紹介セミナーを見て、全身に衝撃が走りました。がん細胞の低酸素応答を測定するためにHIF活性依存的な発光レポーター遺伝子を用いて、発光シグナルの測定を始めていたからです。がん細胞を移植して、腫瘍からの発光を光イメージングで非侵襲的に観察すれば、マウスが生きたまま、経時的に腫瘍内低酸素の測定が可能になります。この方法を用いれば、低酸素領域の増減が観察可能になり、治療法の開発にも活用できます。なんとタイムリーなことに、参画していたプロジェクトでイメージング機器の導入が可能となり、早速実験系を構築して、解析手法の確立に取り組みました。

 その後、「細胞の低酸素応答の仕組み」を利用して、HIF活性が高い腫瘍に対する治療薬の開発にも従事しましたが、残念ながら臨床応用には至っていません。しかし、「がんの低酸素研究」は多岐に渡ってきており、益々面白くなっています。2003年に「低酸素研究」の重要さを広め、研究者間の情報交流・共同研究推進を目的に設立した「がんとハイポキシア研究会」(http://www.cancer-hypoxia.org/)は、1回目に50名足らずが手弁当で集まっておりましたが、毎年研究会を開催して、参加者は2倍以上に増え、今年18回目の研究会の開催を予定しています。残念ながら、昨年は新型コロナウイルス感染症拡大防止のため開催できませんでしたが、今年は盛大に対面で意見交換できることを願っております。