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活薬のひと

アンチ・ドーピングにおける薬学の役割

日本アンチ・ドーピング機構
会長 鈴木秀典 氏

スポーツにおけるドーピング

 新型コロナウイルスCOVID-19による感染拡大に伴って、外出を控えたり在宅勤務をするなど屋内での生活が増える中で、健康医学の観点からも「スポーツをする」ことの重要性が再認識されています。また、スポーツが少しずつ再開される中、「スポーツをみる」ことで活力を得られることを改めて感じた方も多いのではないかと思います。こうしたスポーツの健全性を揺るがすものとして、ドーピングがあります。ドーピングは、ルールで禁止されている薬物や方法を使用してパフォーマンスを向上させることです。世界アンチ・ドーピング機構(World Anti-Doping Agency, WADA)は「禁止表国際基準」においてスポーツで禁止される薬物や方法を定めており、加盟するすべてのスポーツ団体や国はこれを遵守することが求められています。近年の薬学・医科学の急速な進歩は次々と有効な薬物治療法を生み出してきましたが、こうした進歩を悪用し、アスリートによるドーピングは巧妙化し複雑化している現状があります。

ドーピング:薬学・医科学研究の悪用

 薬学・医科学研究の進歩が悪用されている例として、筋力増強作用を期待した薬物の不正使用があります。以前よりテストステロンとその関連物質が数多く用いられてきました。分析には1970年代に導入されたラジオイムノアッセイ法にかわり、1980年代にガスクロマトグラフィー質量分析法が導入され、タンパク同化ステロイドの検出に大きく貢献した歴史があります。その後も分析技術は進歩しましたが、有機化学や分析化学の知識を悪用し、当時の分析手法では検出できないような化合物(デザイナーステロイド)を合成し、供給していた企業が摘発されたこともありました。
 筋細胞内代謝機構と内因性活性物質の研究から、成長ホルモン、インスリンあるいはβ 2アドレナリン受容体作働薬にも骨格筋におけるタンパク同化作用があることが示され、ドーピングに用いられるようになりました。また、骨格筋の発生・分化・増殖の分子機構の解明が進む中で、筋肥大を制御する分子ミオスタチンが同定され、その活性抑制によって顕著な筋肥大が生じることが明らかにされました。従ってミオスタチン阻害は、遺伝性筋萎縮疾患や加齢性筋萎縮などの治療に有望視されていますが、ドーピングに不正使用される懸念もあります。
 持久力を要求するスポーツにおいては、酸素運搬能を増強することがパフォーマンス向上に繋がります。輸血によって酸素を運搬する赤血球を増加させる方法が、単純ながら現在でも行われています。また、遺伝子工学の進歩によって、赤血球の成熟過程に必須のエリスロポエチンおよびその関連分子が人工的に作製され、腎性貧血に有効な治療薬となっています。しかし、これらがドーピングでは造血促進に悪用されています。最近、内因性エリスロポエチンの転写を促す低酸素誘導因子の活性化薬が上市されましたが、低分子で経口投与が可能であり、これも不正使用が懸念されています。

アンチ・ドーピング:薬学・医科学研究の活用

 禁止薬物の検出には薬学・医科学研究と同様の様々な分析手法が用いられています。現在、ドーピング検査の検体は10年間まで保存できることになっていますが、競技会当時見つからなかった違反が明らかにされています。2012年のロンドンオリンピックでは大会期間中に5,051検体が分析され、違反は大会期間中9件でしたが、大会後の再分析で、2020年8月時点で68件の追加の違反が見つかっています。その一部は、当時使用されていたと疑われる物質の薬物動態を検討し、長期に亘って検出可能な代謝物を見出し、これを高感度の機器で分析することによって検出が可能となったものです。
従来行われてきたように分析機器で禁止物質を検出するのではなく、薬物使用の痕跡を見つけ出す手法も用いられています。これらはアスリート・バイオロジカル・パスポートと呼ばれ、その1つである血液モジュールは、自己血輸血や赤血球造血物質の使用歴を検出できます。

アンチ・ドーピング:医薬品に対する取り組み

 禁止表に掲載されている物質および実際にドーピングに不正使用されている薬物の多くが医薬品です。アンチ・ドーピング活動をCorporate Social Responsibility (CSR)の一環と捉え、WADAに協力している製薬企業も国内外に既に複数社あり、その数は年々増えています。実際、不正使用が懸念されるエリスロポエチン関連物質に関して、上市される以前にWADAと連携して、分析方法を確立した例もあります。
 医療の現場においては、患者に接する医師、薬剤師、看護師等がアンチ・ドーピングへの関心を持つことによって、禁止物質に該当しない同効の治療薬を提案することもできますし、治療上欠かすことのできない治療薬は、申請して許可が得られれば治療使用特例として使用できる場合もあります。日本アンチ・ドーピング機構が実施しているスポーツファーマシスト制度では、最新のアンチ・ドーピング規則に関する知識を有する薬剤師を養成することを目的としています。また大学教育においては、薬学部と医学部のコアカリキュラムにアンチ・ドーピングが組み込まれています。

アンチ・ドーピング:アスリートの良きentourage

 現在のスポーツにおけるドーピングは巧妙化し、薬学や医科学の最新の知識を必要とします。ロシアにおける組織的なドーピング問題が報道され世界を揺るがしたように、アスリート個人では不可能なレベルに達しているともいえます。一方、ドーピングを摘発・抑止するのも薬学・医科学であり、クリーンなアスリートを守るのも医療関係者です。「スポーツをささえる」立場から、我々はアスリートにとって良きentourageであり続けたいものだと思います。