活薬のひと

サイエンスとビジネス

日本たばこ産業株式会社 執行役員 医薬総合研究所 所長
大川 滋紀 氏

サイエンスと創薬

 近年、新薬を創製することがますます難しくなり、私たち製薬会社は日々頭を悩ませています。難しくなっている理由は様々な角度から分析がなされていますが、比較的創薬をしやすいローハンギングフルーツと言われる創薬標的が取りつくされ、残りの疾患は病態のメカニズムすらわからないものが残されていること、またこれまでに見出された優れた新薬に比べて薬効や安全性の面で差別化されたものを見出さねばならないことの二つが大きいように思われます。私たちが新薬を考えるとき、まずサイエンス面からの分析・探索を行います。病態に関連すると考えられる様々なメカニズムから新しい創薬標的を見出し、そのタンパクの機能を制御する低分子やタンパク製剤等を見出すべく創薬活動を開始します。したがって病態にまつわるサイエンスは必須です。その厚みのあるところから新薬が生み出される確率は高くなり、過去にもノーベル賞をはじめとする医学・生理学の大きな進展があった分野では画期的な新薬が生み出されてきました。2019年のノーベル医学・生理学賞で低酸素応答に関するメカニズムの解析に対して米国の3名の研究者に授与されることが決まりましたが、そのメカニズムの中心となるHIF(Hypoxia-inducible factor)の分解酵素HIF-PHDの阻害薬が日本で相次いで申請されています。私たちJTもEnarodustatを腎性貧血治療薬として開発中ですので非常に感銘を受けました。
 ただ、サイエンスの進展だけで優れた新薬が生み出されるかというとそうではありません。新薬を創るためには対象とする疾患における真のメディカル・アンメットニーズを理解する必要があります。特に医薬品や薬効の知られた化合物を軸として、患者さんにとって今の治療薬、あるいは治療法がどの程度満足のいくものか、また問題があるとすれば何を解決すればより良い治療を提供できるのかについてもっと深く知る必要があると感じています。病気を良く知らずに創薬を始めるといったことが無いように、そしてより良い治療を提供できる創薬標的を選択するために。
 

ビジネスとは価値を還元すること

 このことは創薬をビジネスとして成立させることにもつながります。日本では国民皆保険制度が整っているためわかりにくいのですが、欧米では差別化された薬でないと当局の承認を受けていても保険償還が受けられないことになります。近年、日本でも費用対効果について議論がなされていることはご存じのとおりです。医療経済を考えた時に国の予算であれ、保険会社の収益であれ採算性がなければ活動継続は難しくなります。まさに創薬はものづくりであり、ことづくり、すなわちよりユーザーの需要を満たすことだと思います。
 今は薬学部のみならず理学部、工学部あるいは農学部といった学部においてもライフサイエンス領域での研究活動が活発に行われています。薬剤師を養成する目的では独自のポジションにあると思いますが、創薬の基本技術である有機合成や生化学などといった関連する学問分野の観点からは他学部との差別化は難しくなっているのかもしれません。創薬は多くの学問分野の知識や技術に加えビジネス戦略を必要とする学際的な活動です。特に新しいメカニズムを有する新薬や既存の薬について薬効・薬理や単剤か併用かなどの使われ方を詳細に理解しておく必要があり、このあたりを意識付けするのは薬学の役割ではないかと僭越ながら思っています。新薬が上市されるにしたがって、また医療機器や医療技術の発展によって変わっていく治療パラダイムを可能な限り正確に捉え、残るメディカル・アンメットニーズを明らかにすることは製薬企業のみならずアカデミアにおけるライフサイエンス研究にも資することではないでしょうか。
 

複数のパラメータの最適解を求めて

 少し話は変わりますが、製薬会社では患者さんにとって良い薬をつくるために創薬標的の選択から化合物の最適化、臨床試験でのエンドポイント、競合品に対する優位性など数多くの項目を満たすべく日々努力を続けています。以前に比べて高くて多いハードルを越えるために、こちらを立てればそちらが立たずとギッコンバッタンシーソーのような状況に頻繁に陥ります。活性等ひとつのパラメータを最適化しても意味が無く、多くのパラメータを考慮した最適解を求めないと優れた新薬は生み出されないということです。今さらながらこのようなことを書いているのは、最近の政治や経済活動を見ていると本来人々が幸せに暮らすためには抱えている多くの問題の最適解、落としどころと言ってもいいかもしれません、を求めねばならないのですが、エネルギー問題と地球温暖化問題などのように相反する難しい問題が多くあり、その解決策に関してシーソー状態が起こっているように感じたからです。結果として単独の問題ばかりが強調されて他の問題は置き去りにされることや、自分あるいは自分の周りのみを見て答えに行きついたり、耳触りの良いポピュリズムに走ってしまったりといったようなことは無いでしょうか。実際、最適解を求めることは難しいのですが、創薬においても社会問題にしても、大局的に考えて何と何を見ておかなくてはならないのかを認識しておくことは大変重要なことだと感じています。