トップページ > 薬学と私 > 日本薬学会広報委員会アドバイザー 広島大学大学院医歯薬保健学研究院 教授  黒田照夫「微生物は私にとって敵でもあり味方でもある」

薬学と私 第54回

 「将来どういう仕事をしたいか」という問いに対して、中学生当時の私は「医師」と答えていました。しかしその理由は、はっきりとしたものではありませんでした。おそらく「なかなか就くことのできない難しい職だから、それに挑戦したい」という漠然としたものだったのだと思います。
 転機が訪れたのは、中学三年の時でした。三月の高校受験を目の前にして、一週間嘔吐・下痢・発熱で寝込みました。症状そのものはカンピロバクターという「微生物」による感染症だったのですが、その後大腸穿孔を発症して緊急入院し、試験の前日に開腹手術を受けました。試験当日の朝「受験しに行く!」と担当医師に伝えたところ、「お前は死にたいのか!」と本気で怒鳴られたことは覚えています。15歳の子供にとって、この経験は挫折以外の何物でもありません。3カ月の入院生活を余儀なくされ、相当に打ちひしがれました。そんな状況でしたが、少し余裕ができたころふと周りの患者を見て愕然としました。私がいた小児病棟は重症の子供ばかりで、私の病気がもっとも軽いものだったのです。「第一志望の高校受験ができなかったぐらいで、なにを悩んでいるんだ」と思い、「私のように辛い思いをさせるのは私で最後にしたい」と考えるようになりました。そして、私の病気のきっかけになったと考えられる「微生物」に興味を持ちました。
 しかし高校生の私には、その先どうしていいのかはまだわかりませんでした。そんな中、研究というものに興味を持たせてくれたのが、兄でした。当時薬学部の学生であった兄は、薬学のこと、そして研究のことをとても楽しそうに話してくれました。高校で物理を専攻していた私には話の半分もわかりませんでしたが、それでも研究の楽しさ、特に微生物を題材とした遺伝子の研究の面白さは十分に伝わってきました。当時はまだ遺伝子というものを今ほど深く理解していませんでしたが、「これは面白い!」とワクワクしました。そこで微生物の遺伝子関連の研究者を目指そうと思いました。が、インターネットもない時代、情報(知識)はなかなか手に入りません。高校生ができることといえば、せいぜい学校帰りの電車の待ち時間を使って、駅地下街の本屋で遺伝子関係の本を頻繁に「立ち読み」することぐらいでした。今から思えば、自分で情報を探し出し学んでいくというスタイルは、高校での勉強よりもはるかに楽しかったと思います。

 薬学に進んだ理由は、薬剤師になりたいという希望というよりは、「岡山大学薬学部に微生物の遺伝子に関するすごい研究をしている教授がいる」からでした。オープンキャンパスもそんなになかった時代ですので、当時は一般的ではなくかなり珍しい動機だったのではと思います。入学してからは、見るもの聞くものすべてが新しく、薬学におけるありとあらゆる分野が興味深く、貪欲に知識を吸収していったような気がします。とはいえ微生物に対する熱意はいささかも変わらず、念願の微生物薬品化学研究室に入りました。指導教員はその土屋友房先生でした。土屋先生からは多くのことを学びましたが、最も印象に残っているのは、「Ask nature!」です。研究を正しく進めるためには、自然界に対して適切な実験方法で正しく問いかけ、返ってきた結果を真摯に受け止め、謙虚に対峙しなさいという意味だと解釈しています。この言葉を胸に、出てきたデータに対しては畏敬の念をもって接するようにしています。ですので、学生が持ってくる実験ノートは私にとっては宝石箱のようなものです。また予想通りの結果が出ても「疑って」考えてみたり、思ったような結果が出なくても「あきらめない」ようにもしています。

 研究にとって大事なことはいくつかありますが、その中の一つは、いかに再現性の高いデータを得るかです。データに再現性があるというのは同じ実験をしたらいつ誰が行っても同じ結果が出るということを意味し、データの信頼性に大きくかかわります。そのために私は、実験するときは自分を機械だと思うようにしています。手の動かし方だけでなく指の動かし方も含めて、あたかも職人のように細心の注意を払っています。このあたりは大工だった父の影響もあると思います。再現性の高い結果が出せるようになると、自分のデータを自分で信用できるようになります。この意味はとても大きく、もしこれまでの知見と異なる結果が出たとしても「もしかしたらここに大きな発見があるかもしれない」と思えるようになりました。普通なら「何か失敗したんだろう」と気にもかけないことでもです。このようにして大事なことを一つも見逃さないようにしています。
 学部生時代から数えると、もう24年間微生物研究に携わっています。世界ではまだまだ微生物感染症は猛威を振るっており、最近では私の専門領域でもある「薬剤耐性菌」の問題がクローズアップされています。微生物感染症によって苦しむ人が一人でも少なくなるように、いい薬を創製したいと強く願っています。まだまだ薬学の根本である「創薬」に関しては、何も成し遂げていないので…。一方で、ここまで長く付き合うと、もう微生物を憎み切ることも難しいです。長年の友というかライバルのような存在です。私にとって微生物は敵でもあり味方でもあります。

 「薬学ほど幅広い分野を学べる学問はない」と私は思います。そしてその知識を活かせる職種は多種多様です。2016年に日本薬学会広報委員会で、中高生向けの薬学紹介DVDを作成する機会をいただきました。このDVDには「薬学出身者がどのような分野で活躍しているのか」をできる限り盛り込みました。中高生に話を聞くと「薬学部=薬剤師」という人が少なくありません。もちろん薬学部を卒業しないと薬剤師にはなれないので間違ってはいないのですが、それ以外の道も多く存在します。中高生の皆さんには、ぜひ薬学のことを深く知って、薬学の道に足を踏み入れてほしいと思います。待っています。