トップページ > 薬学と私 > 株式会社スギヤマ薬品人財本部教育部 顧問 中田素生先生 「人生に無駄なし」

薬学と私 第42回

 私は製薬会社営業職、国立病院薬剤科長、薬学部教授をへて現在ドラッグストアーの薬剤師として店頭でおくすり相談を行っている。
 自分の66年の人生を振り返って、その時々では寄り道だと思っていたことが現在となっては無駄ではなかったと思うことが多い。人間は、挫折を経験し乗り越えたときに竹のようなしなやかさと強さを獲得できる。今、学業や仕事に行き詰まっている薬学生や若い薬剤師にエールを送る目的で私の波乱万丈な人生を振り返ってみたいと思う。

 私と薬学の出会いは、祖母が昭和の初めに薬種商をしていた経験からゲンチアナ末、重曹をガラスの乳鉢・乳棒を用いて祖父の健胃散を「自家製剤」し服用していたことに始まったと思う。
 一方、少年期の私は電気機関車運転師を目指し工学系に興味を持っていたが、高校時代になって化学担当教師と出会いで雲行きが変わった。教師を困らせることを生きがいにしていた私は難解な問題を探してきては教師を困らせることに無上の喜びとを感じていた。ところが、その化学教師は1度も解らないとは答えななかったため、何とか教師を困らせたいとおもい勉強し、結果として化学の成績が伸びていった。
 その結果、家族の希望も有り薬学部への進学を決意した。私は化学を勉強できるという思いで名城大学薬学部に進学したが薬剤師の仕事はほとんど解っていなかった。

 入学当時は学生紛争が吹き荒れていた時期で名城大学薬学部も少しばかり影響を受けていた。友人と討論していたことは「人のために生きるなんて偽善だ」とか「仕事は遊ぶためのものである」など真剣に話し合っていたが、その後の私の人生で当時の主張を打ち破ることとなった。
 薬剤学教室に属し薬物の吸収排泄の研究を行った。私自身がサルファ剤を空腹時、パンのみ、パンにバターを塗った食後の服用し尿中排泄を測定していた。貧乏学生でパンが買えず、手元にあったインスタントラーメンを食べた後に実験した。結果はパンとバターより尿中排泄が悪く先生から怒鳴られた経験がある。この実験の失敗は服薬指導の際患者さんに食事の影響を説明する際に役立った。

 営業の仕事は人との出会いも多く楽しいものであった。しかし尊敬する開業医がいる医院は立派な建物ではなく古い建物の医院が多かった。その1人で松山市の小児科・内科医院の小湊院長が私に諭すように言われた「処方は芸術だよ。患者さんに合った処方をすることが重要なんだ」という言葉が私の心に響いた。患者さんという目線で仕事をする病院薬剤師もいいのではないかと考え始め5年後に国立病院に転職した。

 昭和52年国立療養所柳井病院に採用され病院薬剤師の1歩を踏み出した。最初の取り組みは強力な臭いのあるクレゾール石けん液を、病院から駆逐することを目的に「結核菌に対する消毒薬の効果」という実験を行った。結果、両面活性剤とクレゾール石けん液には結核菌に対する消毒効果は認められたもののクレゾール石けん液の駆逐まではいかなかった。
 今考えてみると病院薬剤師の実験としては危険な実験を行ったと思う。実験は検査室で技師長の協力と助言で標準株でなく臨床株で実験を行うこととし、安全キャビネットもない実験台で数名の患者さんから分離した菌を瑪瑙(めのう)の乳鉢で研和し培地に植えていった。当時はからり無防備に行ったが私や家族が感染せずに済んだことは幸運だったと思う。そしてその後は年1回以上学会・研究会での発表を自分のノルマとして課してきた。

 昭和57年、国立岡山病院に転勤となり当時の副院長であり母乳推進の第1人者であった山内逸郎先生の処方に出会い「処方は芸術だよ。」と言われた小湊先生の言葉を思い出した。山内先生は積極的にプラシーボを使用され患児の治療をされていた。山内先生への患児家族の信頼が薬理作用を上回る可能性を強く感じた。このことを薬局薬剤師と話し合いと思ったが薬局薬剤師と病院薬剤師の壁が高く話し合う機会はなかった。
 薬局薬剤師と病院薬剤師コミュニケーションツールとして当時始まっていたコンピュータ通信を使って、薬局薬剤師と病院薬剤師の壁を破ることを目的に岡山県薬剤師会でOPA-NETを作り中堅の薬剤師が中心となり管理運営を行って一定の効果は上がった。
 平成11年広島市の国立療養所畑賀病院薬剤科長に就任して最初に行ったことは院外処方の発行であった。医師と事務方との説得と同時に行い、近隣薬局の受け入れの説得に仕事を終えてから直接店舗で行った。当時OTC販売のみで調剤経験がない薬局に行って院外処方箋を受け入れていただくお願いと、受け入れるための準備のお手伝いをし受け入れ薬局が決まり初めて院外処方箋発行となったことが、初めて効果を上げた薬薬連携の取り組みであった。
 処方箋を受け入れる不安や経験・設備の不足などは病院薬剤科からでは見えない点が実際の店舗を訪問して見えてきた。薬薬連携はヒトヒト連携であり直接現場で話をすることが重要だということを学んだ。

 平成19年定年を2年後に控えて国立病院機構東徳島病院薬剤科に転勤した。定年を目前にして新しい取り組みをすることに抵抗もあったが、平成20年3月に退院共同指導が保険で認められることを知り薬薬連携の最終兵器と考え取り組むことにした。
 退院時共同指導は御存じの通り在宅指導に移行する患者さんが対象だ。お恥ずかしいことに、薬剤師の在宅指導の在り方を知らなかった私は、既に在宅指導を行っている薬局薬剤師から在宅指導の聞き取り調査を始めた。私が病院で考えていた以上に薬剤師の在宅指導の意義と効果を知り、看護部長の全面的協力の下に幹部会議などで認められ退院時共同指導を実施することになった。
 1番印象的だった症例はコントロール不良の糖尿病の患者さんに退院時共同指導を実施し在宅指導が始まり、薬剤師が在宅指導を行うことで不安定であった血糖が安定し入院することなく3年を経過した患者さんに出会い、薬剤師による在宅医療の重要性を感じた。

 徳島文理大学薬学部に教授として赴任し、まず薬局薬剤師の学会発表支援を行った。薬局薬剤師の学会発表数は大変少ないが薬局薬剤師が先進的な努力を怠っている訳ではないとの思いから、学生を交え開始した。退院時共同指導を行い患者さんの指導をしてきた薬局薬剤師の成果を学会の場で発表することを、抄録作成から指導を始めスライド作り発表原稿と作り、中四国薬学会で発表することができた。
 そして、重要な医療連携の「糖尿病診断アクセス革命!徳島」を実施することができた。この研究では地域と薬局関係が強く求められ「街の健康ステーションそれが薬局です」の復活の必要性を強く感じた。それは、医薬分業以前の薬局は果たしてきた地域密着型信頼の復活が必要と思い、地域に信頼される薬剤師を育てることに専念した。特に中田研究室を巣立っていった薬剤師が地域で活躍していることを見聞きし幸せを感じている。

 徳島文理大学薬学部で就職委員長に就任したが、医療の現場で生きてきた私にはドラッグストアーの薬剤師の業務は未知の世界であった。あるドラッグストアー人事担当者が来て「薬を売らずに帰せばリピータになる」と言った。私にとっては思いもよらない発言を奇異に感じていたところ複数のドラッグストアーの薬剤師から同様な言葉を聞いた。
 大学を定年退職後、青春の街名古屋市のスギヤマ薬品豊店に勤め、店頭で薬の相談を中心に行い、薬剤師法が規定する「国民の健康を確保する」ことができる薬剤師を目指している。
 これまで病院時代は処方箋があって患者さんがいる。薬(処方箋)を通して患者さんを見てきた。ドラッグストアーではお客さんがいて、その向こうに薬がある。
 ドラッグストアーの店頭に立って感じることは、薬の位置とヒトの位置が病院と逆になっていることが新鮮で楽しい。

 人生において、挫折を乗り越えた人間は強い。失敗を恐れず「今」を大切に、力一杯一日一日を生きてほしい。若い皆さんには必ず明るい未来が待っている。