トップページ > 薬学と私 > 一般社団法人 石巻薬剤師会 専務理事 丹野佳郎 先生 「薬あるところ薬剤師あり」

薬学と私 第40回

 私の薬学との出会いは薬学部の入学の日に始まります。現在では大学のカリキュラム、シラバス、教授陣等豊富な情報を得た上で進路を決め薬学部に入学していると思います。しかし、当時の私は薬剤師になるためには薬学部卒業後国家試験に合格すると薬剤師になれる。ということしか頭になく自分の成績と地理的状況から大学を選びました。
 入学前に私が考えていた薬剤師は病院で調剤をする人、薬局で一般用医薬品を中心した商品を販売する人とうイメージしかありませんでした。
 薬剤師は病気で困っている人、苦しんでいる人に薬を与えて人助けする人だと思っていました。入学してみると有機化学を中心とした化学の授業が中心で自分が描いていたイメージとはかけ離れており、薬学は化学領域であって医学・医療とは別の領域の学問ということを入学してから知りました。現在の6年制薬学教育は当時に私が思い描いた薬科大学であると思います。

 大学で学ぶことと私がなりたい職業や仕事に関連性を見いだせないまま4年間をすごし、就職も決まらないまま卒業し、国家試験の合格通知を持って実家に帰り、さて就職活動を始めようとしたところ、父親の友人の薬剤師と家から一番近い薬局の薬剤師が共同経営している薬局が薬剤師を探しているとのことで何の目標もなく勤めることになりました。
 はっきり言って薬剤師は腰掛で別の大学に入るための資金稼ぎくらいの意識で入社しました。しかし、薬剤師、薬学との本当の出会いはここから始まりました。
 大学を卒業した昭和55年当時は医薬分業の機運が全国各地の薬剤師会に高まり、自らを「分キチ」とか「分業バカ」と称する役員の先生方が積極的に活動なさっていました。薬剤師百年の夢が叶う時がもうすぐに来ていると、自分の仕事を犠牲にしても一生懸命頑張っていました。単に処方箋が多く発行され、薬局の経営が良くなるというような安っぽい考えではありませんでした。
 私が帰郷した頃の石巻薬剤師会もまさにそのような機運が高まっていました。当時の役員の皆さんは医薬分業の推進のため努力されていました。私も医薬分業のお手伝いをしながら本当の医薬分業が何かを叩き込まれました。
 今、かかりつけ薬局、かかりつけ薬剤師の重要性が叫ばれていますが、医薬分業黎明期は一般用医薬品の相談販売することでかかりつけ薬局として地域の健康を担っていました。
 私の勤めた薬局も一般用医薬品が中心の薬局でした。入社して最初に言われてのが「薬を売ることより信用を売ること」でした。
 顔に湿疹ができたとステロイド含有の軟膏を求めてきた方がいました。良く見ると湿疹ではなく帯状疱疹のようにみえました。ステロイド軟膏はウイルスの増殖を促進します。直ぐに皮膚科受診を勧めて事なきを得ました。インターネット販売推進者なら欲しい薬を販売したのだから、お客さんの自己責任で売った側には問題ないと主張するのでしょうが、専門家として見過ごすことはできません。「薬あるところに薬剤師あり」が今こそ必要だと思います。
 薬剤師として二度目の転機となったのは3年前の東日本大震災でした。この震災では災害医療に薬剤師が必要となるが実証されました。
 救護所や巡回医療の医療チームは、被災者が常に服用している慢性疾患の薬を必要とする今までの災害では経験しなかった問題に直面しました。そのとき薬剤師の存在がクローズアップされました。
 避難所においても一般用医薬品を提供することで、救護班の負担も軽減できました。初春に発生したこの災害の救護活動は長期に亘り、害虫の発生等予想しなかったこともおきました。その時薬剤師が害虫駆除にあたるなど薬事衛生の知識も必要となりました。
 薬剤師法第1条には「薬剤師は、調剤、医薬品の供給その他薬事衛生をつかさど​ることによつて、公衆衛生の向上及び増進に寄与し、もつて国民の​健康な生活を確保するものとする」と、あります。
 平時薬剤師に求められる仕事は、大規模自然災害でも同じように必要となりました。
 また、震災直後最初に頭に浮かんだことは、阪神淡路大震災、中越地震でも薬剤師会は被災地に支援の薬剤師を送り込みました。被災地の中で情報が途絶え、孤立した中でも薬が必要なことや、薬剤師の応援が必要なことを外部に発信できればきっと仲間が助けに来てくれると信じ、救護活動に開始しました。
 若い薬剤師、薬学生の皆さんには、被災者救援のため災害支援活動にも積極的参加して頂きたいと思います。

 この企画の依頼を受けた時に座右の銘を問われ、はたと自分にそのようなものがあるかと過去を振り返って思い出した言葉が上記の言葉でした。
 薬剤師になりたての頃お世話になった役員の方が、叙勲されそのお祝いのパーティーで「一人はみんなのために。みんなは一人のために。そしてみんなはみんなのために」と心がけて仕事してきたと、ご挨拶されました。はじめの二句はラグビーなどのスポーツドラマなどでよく使われる言葉です。3句目の「みんなはみんなのために」は何か?と疑問に思っていました。
 東日本大震災ではその被災規模の大きさから救援物資が被災者の元に届くまでには時間が掛かりました。細々と入り始めた物資を被災者は、老人や子供に優先的に提供し、一つの避難所が運営共同体となり少ない食糧などを分かち合いました。
 奪い合えば足りない。しかし、分け合えば余りが出ます。このことは非常時だけでなく日常の社会での言えることです。
 私の先輩が薬剤部長をされている病院で新発売になった抗生物質を直ぐに採用して欲しいと医局から申請があがったそうです。その薬は発売前の効果に関するデータはすこぶる良いものでありましたが、薬剤部は採用を承認せず、申請した医師からは不満の声が上がったそうですが、市販後調査の結果が出る前に死亡例が報告され、発売が中止となりました。
 院内採用に同意しなかった理由をお聞きしたとき「薬剤師としての感、構造式を見た時顔つきが良くない」と思ったそうです。彼は有機化学を専攻され医薬品の科学的本質を見抜く目を持っていました。薬のプロとはこのような人であることを薬剤師になってかなり時間を経ってから巡り合いました。
 それまでの勉強不足を恥じると同時に患者の安全を守る責任を痛感しました。悔やまれるのは大学時代に基礎的な薬学を真面目に学ばなかったことであります。薬学生に望むことは薬学の基礎をきっちりと身に付けることは、医療の現場で仕事するとき基盤となり問題解決の基礎となります。長い薬剤師の人生を有意義するためにも大学での学習を大切にしてください。