トップページ > 薬学と私 > 文京学院大学大学院 保健医療科学研究科 特任教授 芝紀代子 先生 「意志あるところに道は開ける」

薬学と私 第34回

 とびぬけて成績優秀でもなく、将来絶対なりたいという仕事も見当たらず、なんとなく高校生活を送っていた普通の生徒でした。ただ、一生を通じて打ち込めるものを持ちたいという気持ちは強くありました。どちらかといえば、理系のほうが得意ということから、私の能力に応じて入学できたところが日大理工学部の薬学科でした。私が8期生ですから、比較的新しく知名度も低い薬学科でしたから、エリート集団からはかけ離れた学生の集まりでした。“人を蹴落として自分だけ得をしよう”という考えを持つ学生はごく一握りで、“皆で頑張って留年しないで卒業しよう”とお互いに足りないところをかばい合うという集団でした。そのためでしょうか。卒後50年だった今でも10数人が集まるとカラオケで“銀座の恋の物語”を熱唱する付き合いが続いています。薬学を学び始めたとはいえ、興味は大学以外のところにあり、ダンスパーティ(当時はダンパと言っていました)で踊り狂ったり、お酒に酔いしれたりと、本当に楽しい大学生活でした。学業を助けてくれた友人たちのおかげで、無事卒業、国家試験も合格でまずはめでたし、めでたしで、社会人の一歩を踏み出しました。

 私の時代は企業に就職する人が大多数でした。女性は特に外資系会社の学術がダントツ人気でした。調剤薬局に勤める人は少なく、薬剤師をやるなら、東大病院の薬局の研修生に1年なるというのが、エリートコースだったと思います。さて私はと思っているところに、当時東京理科大学の教授をやっていた叔父(辰野高司)が、“君は東大の検査部に研修に行くことに決めてきたから”言われ、検査部の助教授だった茂手木晧喜先生を紹介してくれました。検査部というイメージが全くつかめず、東大卒の医者がたくさんいるだろうと思って期待に胸をふっくらませていきましたら、暗い病院の地下で、女性が黙々と試験管を振っていました。ほぼ全員女性でした。見学しているうちに、一挙にやる気を失ってしまいました。

 検査部の職員は衛生検査技師という資格で働いています。この資格は専門学校で取得できることも初めて知りました。薬学卒の私が研修生としてきたのはどうも場違いだったようで、“あの人は薬学の国家試験を落ちてきた人”になってしまい、また教えてもらう臨床検査も全く分からずで、毎日が嫌になってしまいました。そんな時、衛生検査技師学校の実習生として来ていた、足立弝さんが見かねて、ほぼ毎日のように、お昼休みに臨床検査のバイブルである金井泉先生の名著「臨床検査提要」を見ながら、臨床化学の講義をしてくれました。足立さんの熱意に強く打たれた私は、その期待に応えるべく、全く習ったことのない臨床化学検査学に打ち込んでいったわけであります。

 東京医科歯科大学医学部附属病院の検査部生化学検査室の助手をしていた先生が開業することになり、その席が欠員となりました。当時検査部の教官の席は診療科の教員になれなかった医師がなっていた時代でしたから、本腰を入れて検査に取り組もうという姿勢は全くありませんでした。そんな時、私が臨床検査を勉強していたことから、この人なら本格的にやってくれるのではと当時講師をしていた坂岸良克先生の目にとまり、昭和42年6月に文部教官助手に採用されました。各診療科からくる検体の生化学検査業務を遂行することが主たる職務でしたが、東京医科歯科大学には附属の衛生検査技師学校があり、そこで臨床化学の講義、実習も担当することも教官としての職務でもありました。教える事の大変さを十分味わいました。なんとかスムーズに教えようになるのに3年はかかりました。

 毎日毎日異なった検体を検査するので、解釈に苦しむようなデータが出たり、思い通りの結果が出たりと大変興味深い仕事であると思い始めていました。講師である坂岸良克先生が埼玉医大の生化学教授としてお移りになることが決まりました。学位を取得するために、当時医学部生化学教室中尾教授に指導を仰ぐことになりました。
最初にご挨拶に伺ったとき“君、出身はどこ?”“日大薬学です”、長い沈黙の後、“そんな大学聞いたことないな”でした。中尾先生は“君は医学部出身ではないから、医学部教員としてのポジションをキープするには、並大抵の努力では追い付かない。鬼となって研究指導をするからそのつもりで”と言われたのは決して冗談ではありませんでした。学位を取るため数年間、平日は終電、土、日は勿論大学で実験と、それはとても大変なことでした。30歳代は灰色の人生でしたが、私の人生において最も努力した時期でもあります。学位授与式の時30人ほどいましたが、女性は私一人でした。それだけ、女性が学位を取得するのはとても少ない時代でした。中尾教授の強烈な最初の一言が、私の心の中のもやもやを一挙に打ち払い、“よし、やるぞ!!”と、力が蘇ったのであります。

 検査部の助手から講師になりましたが、検査に携わって20年があっという間に過ぎていました。検査部の椎名晋一教授の定年が近くなり、新しい教授が来たら、私は多分残れないだろうと考え、薬学部の教員の席を真剣に考え始めました。ところが当時附属の専門学校であった臨床検査技師学校と看護学校の2つを合わせて医学部保健衛生学科が誕生することになり、椎名教授が助教授に推薦してくれました。平成元年です。このお話をいただいたときは、“本当に運が良かった”と安堵しました。

 このまま助教授でもいいかなと、安易な方向に流れようとしていたときです。ある教授選があり、”助教授はペーパーが少ないから、教授にはなれないな”というような話が小耳に聞こえてきました。教授選があるなら、助教授の私も当然候補になり、“あの人はペーパーが少ないから無理だ”なんて言われたら嫌だなと思った瞬間、火が付きました。教授になれなかったとしても、”あの人はペーパーが少ない”だけは言わせないぞと、奮い立ちました。再び研究に打ち込み、できるだけ英文論文を書くように自分を叱咤激励して頑張りました。人生には自己愛も重要です。教授になることが決まった瞬間、うれしいというより、ほっとしたというのが正直な気持ちでした。

 65歳の定年を迎えるに当たり、また運がめぐってきました。 非常勤講師として30年近く教えていた文京学院附属臨床検査技師学校が、私が定年を迎える平成18年に大学に昇格することが決まり、教授・学科長として来てくれるよう島田燁子学長から招聘されました。学科作り、そして大学院設立、委員長として大学院の運営に携わり、経営という面でも勉強させていただきました。

 薬学卒で臨床検査を専攻しているということから、10年ほど共立薬科大学(現慶応大学)大学院の臨床検査学の講座を担当させていただきました。このことが契機となって薬学の先生方との接点ができました。私の弱点は調剤をやったことがないことです。薬剤師の方に講義をしていながら、調剤の経験がないのでは講義が一方通行になってしまいます。 70歳の時大決心をしまして、浅草薬剤師会の会長でいらっしゃる坂口眞弓先生にお願いいたし、坂口先生が経営している薬局で石井隆明先生について週1回ですが、調剤を学んでおります。今頃になって薬剤師の免許が生きたわけです。

 振り返ってみれば、苦しい時も楽しい時もありました。人生を川の流れに例えることがあります。流れのままに身をゆだねる時期と、流れに逆らってチャンスをつかみ取る時期、この切り替えを間違えないことだと思います。私は臨床検査の分野に行きましたのでしばらく薬学とは無縁でしたが、薬学でも臨床検査の知識が必要になったためでしょうか、再び薬学の分野の先生方との交流も始まりました。最初から決まった人生を歩むのは退屈でしょう。スタートは何をしたいのか見当がつかないのは当然のことです。意欲があれば目標を達成するための方法は必ず見つかります。そして達成への道が開けるはずです。慌てず、焦らず、じっくりと、そしていざという時のためにダッシュできる力だけは養ってください。