MEDCHEM NEWS Vol.33 No.2
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日本たばこ産業式会社 医薬総合研究所 化学研究所 主任研究員 「ヘキサンは脳のシナプスを破壊するから使わないで」カラム精製中、フランスから来ていたポスドクの方に言われた言葉である。修士1年生の当時は、明らかに危険な反応以外はドラフト外で実施することが多く、n-ヘキサンが体内で何らかの作用をするとはどうしても思えなかったため、このカラム精製以降も何らかの対応を行うことはなかった。後に知ったことだが、代謝物である2,5-ヘキサンジオンが軸索に存在するタンパク質のリジン残基などと共有結合し、神経毒性を引き起こす可能性が指摘されている。n-ヘキサンは引火性の高い溶媒であり静電気による発火事故に注意が向かいがちであるが、暴露により神経障害が引き起こされた事例も複数存在する。このように意外とその危険性が見落とされている試薬について、いくつか紹介したい。 ジアゾメタンは爆発性と毒性があることをご存じの方も多いだろう。すり付きコックはもちろん、尖ったガラス器具やわずかな傷も爆発の原因となりうる。そのため、長期間の保存は避け、できれば用時調製で使用することが望ましい。その代替品として知られているのが、トリメチルシリルジアゾメタンである。ジアゾメタンに比べて安定で揮発性も低いため取り扱いは格段に容易であり、ヘキサンなどの溶液として市販もされている。しかしながら、この試薬が原因の死亡事故が少なくとも2件起きており、カナダで起きた事例では、屋上工事でドラフトが停止していたために暴露された研究者がその翌日に肺障害のため亡くなっている。ジアゾメタンや硫酸ジメチル、ホスゲンなどの試薬は重い症状が現れるまでに数時間を要することが知られているが、いずれの事例も事故直後はその重大性に気づけなかったのではないかと想像する。爆発の危険が減っているため安全な試薬であると思いがちであるが、毒性の観点からみると依然注意を要する試薬であることに変わりない。 次に、HBTU、HATU、HCTUといったペプチドカップリング試薬によりアレルギー症状が誘発された事例を紹介する。当時大学院生だったKate McKnelly氏は数年にわたってこれらの試薬を使用していたところ、喘息様の重いアレルギー症状を発症し、所属している建物に立ち入れなくなってしまった。アレルギー症状が起きたメカニズムは、これらの試薬がハプテンとして働いている、すなわち化合物が体内のタンパク質と結合し、これが抗原として認識されるためだと考えられている。個人差があるため一概にはいえないが、ハプテンとなりやすい化合物は、これらの試薬以外にも知られており、日常的に使用する試薬などに無自覚に長期間暴露されないよう注意したい。 ここで紹介したもの以外にも溶媒自体が反応する可能性、長期保存による分解や過酸化物蓄積など、見落としがちなポイントは多岐にわたる。このコラムが、まだ認識できていない危険な試薬が多数存在することを知り、安全について考えるきっかけになれば幸いである。奥田聡(おくだ さとし)1998年 京都大学大学院工学研究科修士課程修了同 年 日本たばこ産業株式会社入社2010年より現職2015年4月~2016年9月 京都大学物質-細胞統合システム拠点へ派遣現在まで創薬化学研究に携わる AUTHOR 84MEDCHEM NEWS 33(2)84-84(2023)Copyright © 2023 The Pharmaceutical Society of Japan奥田 聡Coffee Break意外と危険な試薬

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