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過去のハイライト

 日本は世界がこれまでに経験したことのない超々高齢社会を迎えます。全ての人が人生の中で“介護”に直面することになるまさに“大介護時代”。国は施設介護から「在宅介護」に方針転換することを打ち出していますが、訪問看護などの体制整備がまだ十分ではない中で、いまだに8割以上が病院で亡くなっている現状を変えることが出来るのでしょうか・・・。この大介護時代を日本が乗り切れるのか世界が注目しています。これまで日本は北欧の介護を参考にしてきましたが、日本の介護が世界のモデルケースになれるのかどうか大きな試練の時なのです。これまでの固定観念にとらわれずに新しい発想で医療や介護の在り方をみんなで考えていかなければなりません。
 “住み馴れた地域で最期まで暮らせる社会”を実現するためには、医療と介護の連携はもちろん、医師、看護師、リハビリ、薬剤師、介護福祉士、ケアマネージャー、ヘルパー、保健師、NPOなどなど全ての職域の人達が一致団結していく必要があると感じています。そして一人一人が最期までどう生きたいのか健康なうちから考えていかなければなりません。

 私は日本テレビの報道局で厚生労働省を担当するなど10年あまり医療や介護の現場の取材をしてきました。フリーアナウンサーになった今も「医療と介護」を生涯のテーマに活動をしていますが、その大きなきっかけは母の病気でした。末期の子宮頸がんの母を在宅で看取ったのは今から14年前のこと。まだ在宅の体制も整っていませんでしたし、医療現場にも“緩和”という概念は広がっておらず、「もう治療がありません」と言われたらホスピスへ・・・という時代でした。ですが母の場合はかかりつけの総合病院に“緩和治療科”という科が立ち上がっていて訪問看護を受けることが出来ました。この緩和治療科では外科、内科、精神科、そして訪問看護師がチームを組み、外来で抗がん剤治療をしたり、痛みのコントロールをしたりと、最期まで自宅で過ごすための治療やサポートを受けることができました。がん患者さんの希望の数だけ選択肢がありました。今では“チーム医療”という言葉が当たり前に使われますが、当時は本当に画期的だったと思います。
 手術もできず「もう治療法がない」という状態の母。しかも、母は私が高校三年生の時に40歳という若さでくも膜下出血で倒れ右半身麻痺となり車椅子の生活をしていました。さらに言語障害のために細かい意思表示をすることが出来ませんでした。主治医の先生も言葉の不自由な末期がん患者の看取りをするのは初めてとのことでした。長年、不自由な生活を送っていましたので、唯一自由に過ごせた住み馴れた我が家で最期まで過ごさせてあげたいと強く思い、先生にもそのことを伝えました。がんの告知を母にするかどうか、在宅で看取ることは可能かどうか先生と長い時間をかけて話し合いを重ねていきました。

 そして在宅で看取ることを決めてからは毎日が“決断”の連続でした。食事が摂れなくなっていましたので点滴をするためのIVHのチューブを埋め込む手術をするなど在宅の準備を進めていきました。中でも一番大きな決断は人工肛門の手術でした。がんが腸を巻き込むように大きくなってしまったため排便が大きな苦痛になっていて、腸閉塞になる危険がありました。そこで人工肛門という選択肢があると先生が提案してくれましたが、全身麻酔であること、開腹したことによりがんを刺激してしまうかもしれないなどリスクを聞いた上での決断でした。先生にとっても難しい手術だったと思います。幸いにも手術は成功し母は排便の苦痛から解放されることになりました。
 “住み馴れた我が家で”という響きは耳触りがいいものです。ですが変わりゆく家族の姿を目の当たりにするのは辛く、家族には覚悟が求められました。「何かあったらどうするのか?」と父は緊急時への不安から尻込みしていました。在宅を選択するということはイコール“延命治療をしない”ということです。病院ならばナースコールを押せば誰かが駆けつけてくれますが自宅ではそうはいきません。家族だけで“その時”を迎えられるのか・・・私も大きな不安を抱えていました。

 そんな私達を支えてくれたのは訪問看護師さん達でした。在宅の終末期に求められるのは高度な医療ではありません。毎日来てくれる看護師さんは血圧、体温、尿や便などのチェックしながら、ちょっとした変化を見逃さないようにしていました。そして何気ない会話を繰り返すことで母の精神的な苦痛を和らげてくれました。また見守ることしか出来ない私達家族にもいつかくる別れの日を前に母が辿るであろう過程を少しずつ説明してくれたことで徐々に不安は取り除かれていきました。そして母が息を引き取ったことを連絡すると、すぐに駆けつけてくれ玄関で号泣してくれました。その姿は今も胸に焼き付いています。心の通った医療と看護の支えがあったからこそ母を自宅で看取ることが出来ましたし、母は本当に幸せでした。病気を治すだけが医療ではなく、“寄り添う医療”があることを教えていただきました。

 母の死をきっかけに“ドラッグ・ラグ”を中心として、2000年からがん医療の取材をしています。海外では標準的に使われているのに、必要な薬が必要とする患者さんの手元に届かないお粗末な日本の現状を知り、これが先進国なのかと愕然としました。がん患者さんや家族がドラッグ・ラグ解消を求めて訴え続ける姿を取材。少しずつ改善されてきていますが、命を懸けて闘ったがん患者さんの存在、そして今も活動する患者さんがいるということを忘れないで欲しいと思います。「創薬」という言葉がありますが、創り出した薬を必要とする患者さんの元に届け、そしてその薬が正しく使われるように目を配ることは薬剤師さんの大きな仕事です。
 高齢者の多くが何らかの慢性病を抱えていますが、薬をなかなか捨てられなかったり、きちんと服薬できない場合もあります。町で見かける薬局やドラッグストアなどが、そんな方々の服薬指導を含めた健康相談の“よろず窓口”になってもいいのではと思います。少しでも健康でいる時間を長くするための“セルフメディケーション”を生活の中で実践するための鍵を薬剤師さんが握っていると言ってもいいかもしれません。介護現場の取材をしていて、薬局で薬剤師さんが薬の説明をする際、家族の介護をしている方からいろいろな相談を受けるという話を伺いました。病院で忙しそうにしている医師や看護師さんではなく、薬剤師さんの方がより身近で相談しやすい存在になっているようです。薬局は患者さんが自宅に戻るまでの最後の医療機関であり、町の薬局は地域の人を医療機関につなぐ大切な“架け橋”だと感じています。健康に不安を抱える高齢者や患者さんだけでなく、地域の人と信頼関係を築き、地域の健康や命を“見守る役目”を担う“かかりつけ”薬剤師さんが増えればこれほど心強いことはありません。

 在宅看護の主役は“訪問看護師”だと自分の経験から確信していますが、薬剤師さんにもぜひ活躍して欲しいと思います。母の場合は入院していた時にベッドサイドに薬剤師さんが来てくれて、処方されている薬の説明を丁寧にしてくれました。すでに実践されている方もいると思いますが、一人暮らしの高齢者が増え、出来るだけ多くの在宅看護の担い手が必要になると考えると、薬剤師さんが病院を飛び出して、もっと訪問看護や介護に携わってもいいのではと思います。 最初に固定観念にとらわれずと書きましたが、新しい役割を自分達で作り出していく想像力をぜひ持って欲しいと思います。これまで誰もやってないからやらない、出来ないのではなく、“誰もやっていないなら自分がやる”“出来るようにするためにはどうしたらいいのか”という発想の転換を全ての人がすることが出来たら来る大介護時代を乗り切れると信じています。