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過去のハイライト

 我が国が現在、少子高齢化社会として世界の先頭を走っていることは周知の事実である。やがて、2030年には30%の国民が65歳以上となり、その結果、このままでは現在でも国家財政を圧迫している医療費を含めた社会保障費が破綻することは目に見えている。医学的な立場から言えば、これ以上医療費を高騰させない唯一の方法は、予防医学を強力に進めることである。その結果、病気の予兆を検知し、重篤な病気になる前に適切な処置・投薬を施すのがもっとも優れた戦略である。大部分の病気は遺伝要因と環境要因の相互作用で発症するものであるので、この両者の情報を正確に分析し、どのような遺伝背景のもとでどのような病気を発症し易いか、またその発症に関わった生活習慣等をつぶさに長期に亘って観察することが不可欠である。このような医学的に極めて重要な「ゲノムコホート研究」が、内閣府総合科学技術会議によるアクションプランとして平成23年(2011年)から開始された。

 筆者は総合科学技術会議議員として2009年の科学技術振興調整費による全国コホート調査研究から、2011年度科学技術戦略推進費による日本のゲノムコホート研究開始に至るまで、その推進に直接関わって来た。この過程でゲノムコホート研究を正しく理解している研究者が非常に少ないことに驚いた。とりわけ、「疾患コホート研究におけるゲノム関連解析(疾患コホートゲノム研究)」と「ゲノムコホート研究」とがまったく区別できていない研究者が多いことに困惑した。「疾患コホートゲノム研究」はすでに10年以上行なわれ、最初はSNP解析、近年では全ゲノムの塩基配列解析まで含めた膨大な解析データが蓄積されている。この方式は、まず正確な診断によって確定した特定の病気の患者群を集め、その患者群のゲノムで高頻度に検出されるDNA変異を探すことにより、疾患感受性遺伝子を同定しようとするものである。また、血圧や血液マーカーなどの表現型と関連する遺伝子を探索する研究もこれに含まれる。この場合には、対象者から特定の疾患の研究にDNAを含む生体試料の使用を許可する同意を得ることが倫理委員会から求められる。SNP解析によって様々な疾患の遺伝的リスクファクターが検出されたが、多因子疾患がほとんどを占める生活習慣病や神経・精神疾患等においては、個々には影響力の弱い多数のSNPや、頻度は低いが患者に集積するようなSNPが関係するため、これという決め手は得られていない。それに加えてSNP解析で検出している遺伝子変異は極めて限られたものであるので、今後は全ゲノム塩基配列解析に比重が移ることが予測される。

 一方、「ゲノムコホート研究」と呼ばれる手法は、現在世界中の各国で計画または開始されている疫学研究方法であるが、「疾患コホートゲノム研究」とは180度違う方式である。ここにおいては、健常人の集団を登録し、20年以上に亘って追跡し、その人たちの医学的な情報、環境や生活習慣の情報、そして究極の個人情報である全ゲノム塩基配列を仮設を立てずにすべて発症前に集め、この人たちがどのような病気を発症し、あるいはどのような治療を受けて、どのように反応したかをすべて前向きに解析するものである。他方、「疾患コホートゲノム研究」は後ろ向き研究で、すでに病気になった人を振り返って解析するものであり、過去の生活習慣などの情報は前もって立てた仮説に従って集められる。すなわち、患者が健康であった時までさかのぼって臨床情報、環境・生活習慣情報を収集するのはほぼ不可能で、コホートを設定したときにあらかじめ仮説に基づいた限定的な情報しか研究対象にならないという点で「ゲノムコホート研究」とは全く異なる。

 後ろ向きか前向きかというコホート設計の違いによって必然的に必要な倫理的指針が異なる。「疾患コホートゲノム研究」については、対象者からDNAなどの生体試料を得るときに、その生体試料で特定の疾患と類似の病気を解析することを明確にした上で倫理委員会よる研究の承認を得たのちに対象者から同意を得る。ところが、「ゲノムコホート研究」は仮説を立てない前向きコホートであるから、どのような疾患の研究につながるかは予測できない。したがって、この場合は「包括的同意」が必要である。これは自分の個人情報(DNA配列を含む)をどのような医学研究に利用しても構わないという同意書であり、多くの健常人から倫理委員会が納得する様式でこれを得ることは容易ではない。しかし、これを得ない「ゲノムコホート研究」というものはあり得ない。この点を理解せずに「疾患コホートのゲノム研究」でもって、「ゲノムコホート研究」が行なえるかのような言動をする研究者が一部にあるのは極めて遺憾である。包括的同意を得ないでもし「ゲノムコホート研究」をやろうとする研究者がいるとすれば、これはまさに無免許運転で道路を走るようなものであり、断じて許されるものではない。

 「ゲノムコホート研究」はその性格から、また財政的な観点から全国の研究者の総力を結集するナショナルプロジェクトとなる。そのためには大勢の登録者を必要とすることと、地域差をコントロールするため必然的に全国数カ所で登録と試料収集を行なう必要があり、拠点間で実施方法や規格の統一が必要である。すでに各地域や研究機関で行なわれている「疾患コホート研究」を寄せ集めてデータを積み上げることはデータの質を担保できず不可能である。今後、内閣府のアクションプランに基づき、文部科学省でも推進していく「ゲノムコホート研究」は、倫理委員会に認められた包括的同意に基づき、また国家プロジェクトとして統一的なしくみの合意形成を行い推進すべきものである。内閣府ではこのような規格統一をはかるために2011年から3年間の「ゲノムコホート研究」のパイロット研究を行い、必要な知見を全て集める計画である。

 「ゲノムコホート研究」は決して簡単なものではなく、上記の研究を遂行するためには、日本できちんとした体制をとるために全ての研究者が心をひとつにして困難に立ち向かう必要がある。また、単に医学関連分野のみならず、情報科学に新たな課題を提起し、物理化学分野に新たな機器開発を要求するなど幅広い研究者の参画が必要な極めて学際的な研究である。とりわけ、情報科学分野にとっては50万人の全塩基配列や50万人の医療情報というこれまで遭遇したこともない膨大で複雑な情報から、如何にして必要な情報を抽出し自在に比較検討するのか、新しい情報革命が必要とされる。血液の微量成分を検出しそのデータを比較解析するためには、従来の分析技術よりはるかに簡便で感度の高い方法や機器が必要とされる。

 しかしこのような困難を乗り越えたあとに得られる成果は極めて大きな社会的インパクトを持つ。疾患に至る予兆をみつけることができれば、いわゆる先制医療として病気になる前に介入治療を行なうことも不可能ではない。また、病気の原因となる候補遺伝子や病気に関連するバイオマーカーなどの知見は新しい創薬のシーズを生み出すものである。このためには初期から製薬企業の参画を促し、国と一体的なプロジェクトを進行、完了することが望まれる。また、医学生命科学にとっても、これこそまさにヒトの生命科学を動物で得られた知見をもとに説き明かす最も優れた稀有な機会となり、はじめてヒトの生命科学の大きな進展が期待されるのである。

 ゲノムコホートは少子高齢化社会の我国にとっては予防医学を充実させるために喫緊の課題である。さらにこれはヒトの生命科学を推進するために多くの分野の研究者を結集する巨大プロジェクトとなり、国家的に推進する必要がある。しかしながら、健常人コホートであるために必然的に包括的同意を取得するという倫理的制約があることを厳に守らねばならない。また、このようなプロジェクトは全国に数カ所の拠点を設け、すべての拠点が統一の基準で行い、そのデータを集約するような制度設計が極めて重要である。これからのパイロットスタディに基づき必要経費の精査や、整備体制を確立することがこのプロジェクトの成否を決める。