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過去のハイライト

 4月24日、都内の路上で交通事故に会いました。私が歩行者用の青信号に従って歩いていたところ、わき見運転をしていた右折車が、一時停止せずに、横断歩道に進入してきたのです。あわやという直前にドライバーが急ブレーキをかけましたが、間に合わず、接触事故となりました。挫傷程度の軽症ですみましたが、目の前にライトバンが迫ったその一瞬、死の恐怖を感じました。

 ここだけの話ですが(笑)、普段はあまり、道路交通法を守らない方です。(お巡りさん、ごめんなさい)しかし、赤信号で渡る時には、しっかり周りを確認します(笑)。しかし、今回は、青信号でしたので、気が緩んでいました。リスクがないと思っていることが、リスクだと感じた次第です。

 冗談はさておき、今、福島第一原発の事故で、放射線被ばくを心配される方がおおぜいいます。私の部下(放射線治療専門医)ですら家族を関西などに“避難“させたりしています。ちなみに、日本の自然被ばくは、年間1.5ミリシーベルトと、世界平均の2.4ミリシーベルトより低いのですが、「西高東低」の傾向があります。一番低いのが東京や神奈川で、関西の方が、年間で最大400マイクロシーベルトも高いのです。正しく知って避難しないと、かえって、“被ばく“することになります。

 たしかに、放射線は、DNAに“二重鎖切断“を与える結果、一定の量以上の被ばくを受けると、白血球の減少など、「確定的影響」が発生します。しかし、私たちの細胞は、放射線によるダメージに“慣れて“います。そもそも、生命が地球上に誕生した38億年前から、私たちの祖先はずっと放射線を浴び続けてきましたから、細胞はDNAのキズを“修復“する能力を身につけています。自然被ばくのレベルから放射線量が増えても、余裕を持って対応できます。

 しかし、大量の被ばくになると、“同時多発的“にDNAの切断が発生するため、修復が間に合わなくなり、細胞は死に始めます。500ミリシーベルトといった被ばく量になると白血球の減少といった「確定的影響」(閾値がある障害)が発生します。逆に、閾値以下の線量では、確定的影響は見られませんが、200ミリシーベルトといった低い線量でも、発がんの危険は上昇します。

 被ばく量と発がんリスクの上昇についての関係は、広島・長崎の被爆者のデータが基礎となっています。原爆での被ばく量は、爆心地からの距離によって決まりますから、被爆時にどこに居たかが分かれば、被ばく線量は正確に評価できます。この点、チェルノブイリなどの原発事故では、住民の被ばく量の見積もりは困難です。たとえば、今回の福島第一原発事故でも、原発から30キロ以上離れている飯舘村での放射線量が高いため、「計画的避難区域」に指定されています。原発から大気中に放出された放射性物質が、北西の風に乗って、この地域に流れ込んだことが原因です。原発事故の場合、同心円状の距離では、被ばく線量を特定できませんから、個人の正確な測定がなされていなかったチェルノブイリ原発事故などのデータは信憑性が低いという難点があるのです。

 広島・長崎のデータでは、150~200ミリシーベルト以上の被ばくでは、がんの発生が、被ばく線量に対して、直線的に増えていました。しかし、これ以下の線量では、発がんリスクの上昇は“観察“されていません。このことは、「150ミリシーベルト以下の被ばく線量ではがんは増えない」を意味するわけではありません。そもそも、200ミリシーベルトの被ばくで、致死性のがんの発生は、1%増加するに過ぎません。50ミリシーベルトで、本当に、0.25%増えるかどうかを検証するだけの「データ数」がないのです。「150ミリシーベルト以下の被ばく線量ではがんは増えるかどうか分からない」というのが本当のところです。

 ただ、インドのケララ地方のように、放射性物質を含む鉱石(モナザイト)のため、屋外の自然被ばくが年間、70ミリシーベルトにまで達する地方があります。しかし、そうした地域でも、調査の結果、がん患者は増えていません。実際、多くの専門家が100ミリシーベルト以下であれば、発がんリスクは上がらないのではないかと考えています。

 200ミリシーベルトで、致死性のがんの発生率が1%増えるわけですが、もともと、日本人の2人に1人が、がんになります(男性では、6割近く)。つまり、100ミリシーベルトで、発がんリスクが50%から50.5%に、200ミリでは、51%に増えるというわけです。

 現代日本人は、”青信号で安心しきっていた”私と同様、リスクの存在に鈍感です。今回、突然降ってわいた、「放射線被ばく」というリスクに日本全国で大騒ぎをしていますが、他にも、リスクは沢山あります。

 たとえば、野菜は、がんを予防する効果がありますが、野菜嫌いの方の発がんリスクは100ミリシーベルトの被ばくに相当します。受動喫煙も100ミリシーベルト近い発がんリスクです。

 肥満や運動不足、塩分摂りすぎは、200~500ミリシーベルトの被ばくに相当します。タバコを吸ったり、毎日3合以上のお酒を飲むと発がんのリスクは1.6倍くらいの上昇しますが、これは、2000ミリシーベルトの被ばくに相当します。つまり、放射線被ばくのリスクは、他の巨大なリスクの前には、”誤差範囲“と言ってよいものなのです。

 ただし、喫煙や飲酒などは自ら“選択する“リスク(リスクと知らずに選択している場合も多い)ですが、原発事故に伴う放射線被ばくは、自分の意志とは関係ない”ふってわいた“リスクです。放射線被ばくは、その意味で、受動喫煙に近いタイプのリスクと言えるでしょう。そして、繰り返しですが、女性の場合、受動喫煙のリスクは、100ミリシーベルトの被ばくに相当します。

 「ゼロリスク社会、日本」の神話は崩壊しました。しかし、今回の原発事故は、私たちが、「リスクに満ちた限りある時間」を生きていることを思い直す契機だとも言えるでしょう。

<略歴>
  • 1960年  東京生まれ
  • 1985年  東京大学医学部医学科卒業
  • 1985年  東京大学医学部放射線医学教室入局
  • 1989年  スイス ポーラシェーラー研究所 客員研究員
  • 1993年  東京大学医学部附属病院 医員
  • 1996年  東京大学大学院 医学系研究科 専任講師(放射線大講座)
  • 2002年  同講座助教授
  • 現在、東京大学医学部附属病院 放射線科准教授 緩和ケア医療部長

『がんのひみつ』『死を忘れた日本人』(朝日出版社)など死生観やがん教育をテーマにした著書多数。TV番組「世界一受けたい授業」では。がんに関する話を平易な言葉で解説。福島原発の事故後は各メディアに登場し、放射線被ばくのリスクについての正しい理解を呼びかけている。最新刊は、『がんの練習帳』(新潮新書)。