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過去のハイライト

松木会頭

 少子・高齢化社会の急速な進展や、21世紀の強力な競争相手になった新興アジア諸国の台頭などを背景に、社会は今大きな困難に直面しています。低迷する大学卒業者の就業率や、医薬品関連では治験・臨床試験の空洞化、研究所・開発センターの国外移転など、身近なニュースは事態の厳しさを伝えています。目線を医療の将来に向けると、加齢による生理機能の低下や染色体レベルの変化にもとづく疾病の増大、これを背景とする要介護・ケア人口の増大や終末期医療、さらに医療費対応など、難問山積の状態です。これを航空機「日本号」として例えれば、未だ経験したことのない大きな積乱雲に突入しつつあると見ることもできます。また克服のための推進剤となる医療資源は、生産可能年齢層人口の相対的・絶対的減少に伴い、とくに財政的な面で需要に見合う増大はまず期待できません。貴重な医療資源の効率的な分配と活用が必要であり、その方策確立は先延ばしにできない課題になっています。

 これら社会が直面する問題を前に、薬学を学ぶ者や薬学は、その幅広い科学領域と蓄積を基盤に、改善や解決の方向を示し得る数少ない総合学問領域ではないかと思います。

 死因第一位の悪性腫瘍やQOLを顕著に低下させる免疫原性疾患に目を向けてみます。近年これらの疾病治療に大きなインパクトを与えた抗体薬(高分子タンパク製剤)は、同時に巨大な開発コストや製造コストの上に実用化されたものであり、やむを得ないこととはいえ医薬品価格が患者に相当な負担感をもたらしています。年収(世帯あたり)減少傾向をはじめ経済指標が例外なく社会の疲弊を示す中で、より使いやすい医薬品の開発は急がなければならない課題です。
抗体薬の基盤である分子生物学や遺伝子科学に有機化学研究をダイナミックに組み合わせ、同じ薬効を持った「低分子医薬品」の一層の開発、すなわち生体や細胞中でペプチドやタンパクが担っていた役割を低分子の化学合成リガンドや阻害物質などに担わせることができれば、ただちに生産費用軽減が可能となります。対象患者数の増大が避けられない中、患者やご家族だけでなく、医療制度全体への大きな貢献であり、これは生命科学と化学物質の関わりを一貫して追求し続けてきた薬学ならでは領域ではないかと信じます。

 優れた医薬品を早く医療の場に、という言葉は薬学を学ぶ全ての者の共感を呼びます。単に時間的な問題に止まらず、新薬開発トータルの生産性向上や患者から見たアクセシビリティ、アフォーダビリティの改善、さらには産業自体の競争力強化に好ましい影響を与える、大切で意義有る目標です。しかし同時に共鳴する音調には、安全性は決して妥協することができないという大事な原理があります。「早く、しかも安全に」という要請を同時に満たすことは簡単ではありません。なぜなら新薬開発が最先端の応用科学であるが故に、永遠に「これまで経験したことのない問題」で有り続け、原理的に困難な課題であるからです。
したがって、これらを評価する科学も同じ歩調で前進しなければなりません。医薬品の評価や安全対策の科学的かつ実践的な基盤は50年ほど前に骨格を整え、ランダム化比較臨床試験や自発的副作用報告制度などをベースとして21世紀を迎えました。しかし先に述べた抗体薬に象徴されるように、医薬品は開発手法を含め生命科学の進歩とともにドラマチックに変わりつつあります。患者・社会もまた同様で、規制科学、いわゆるレギュラトリーサイエンスについてもこれらの進歩や変化に対応し得る思い切った改革が求められています。今こそこの領域をしっかり体系化し、学問的な評価法を定めなければなりません。共有できる目標の中で相互に批判する場を持つなどの基盤確立が必要です。政府においても薬剤疫学的なデータベースの構築に取り組むとされています。また最近関連する研究室や学会・部会が充実しつつあることは喜ばしいことで、薬学を学ぶ者の活躍の場として改めて認識され、力が注がれることを期待します。

 医薬品の開発では、6年制教育で培われる医療の第一線で起こる問題への鋭敏な感覚と薬剤疫学的な教育を土台とし、医師らと協力しつつ自ら専門家として臨床試験・研究を企画し、優れた薬物療法を提案することも、将来開拓されるべき分野として見えてきます。この実現には薬学を学ぶ者自身が治験・臨床研究などに関し他流試合を含めた研鑽と議論を進め、同時に関連する制度習わしの改善に向けたの努力を続けなければなりません。これらによりはじめて新たな機会が拓けることになると思われます。

 今日社会が直面している問題は、長い歴史と年月の中で形成された構造的なものであり、医療・薬学に関する課題についても一朝一日に解決されるものではありません。制度的な改善や大きな資源再配分が必要なものもあります。しかし正しい解決の道筋であるという確信のもと、日頃の研鑽に加えて薬学のポテンシャルを社会に繰り返し説明し、理解と活躍の機会を得ることが大事です。薬学に在る者全体に、未踏の分野に向かう今一層の努力と気概が求められており、そこから未来が拓けるものと信じます。

<略歴>
  • 1973年 千葉大学薬学部卒業。同年、厚生省に入省
  • 2000年 厚生労働省安全局安全課長
  • 2004年 厚生労働省大臣官房審議官
  • 現在、千葉大学、京都大学、早稲田大学・東京女子医科大学共同大学院客員教授