トップページ > 薬学と私 > 三輪亮寿法律事務所所長 弁護士 三輪亮寿 先生 「私と半世紀余りの薬学人生」

薬学と私 第8回

 私の薬学との付合いは、半世紀余り、今年で58年に及びます。その間、紆余曲折があるにはありましたが、思えば、正に「薬学一途の人世」。今なお学ぶべきことが一杯あることが、毎日の元気の源であり、有難く思っています。こんな私を一つのケーススタディーとして見てくれる若い人たちがいたら、薬学人生の先輩として、こよなく嬉しいです。

平成23年6月10日 本郷の事務所にて

 戦後色の抜けきらない1953年に、駒場から本郷に進学しましたが、「血を見るのが苦手」の私は薬学科(当時は医学部薬学科)を選択しました。それが、薬学との出会いでした。「薬学」というものを深く洞察することもない、いともお気軽な学生時代でした。

 1955年の卒業とともに製薬企業に就職して22年間勤務しました。途中、1964年頃から始まるサリドマイド事件を皮切りに、スモン訴訟に代表される「薬バッシング」の風潮が津波のように高まり、それが1970年代に入りいよいよ勢いを増しました。

 「薬バッシング」は、端的に言えば、薬稼業という私の生業への攻撃であり、否定でもあります。私は薬学に対して悩み始めることになりました。それまでの私は、「薬は人類の貴重な知的財産」と漠然と思い込み、薬に携わることを誇りにもしてきました。それが根底から覆されようとなってきたのです。

 特に、推計学の権威であった東大医学部物療内科講師の高橋晄正先生の舌鋒は鋭く、一言の反論も許さないものでした。マスコミを始めとする世論が、こぞってそれを後押ししました。私は反論したかったのですが、ただお念仏のように「薬は人類の貴重な知的財産」を繰り返し唱えるだけで、そんな非力な自分がとても惨めでした。

 「薬バッシング」を契機に、私は薬の新しい一面として、「規範的側面」を意識するようになりました。薬害訴訟を引合いに出すまでもなく、薬は極めて社会的な存在であるという厳然たる事実を実感し、薬は科学的側面だけでは社会に存在し得ないということを思い知らされたからです。それは同時に、それまでの薬学に「社会的側面」ないし「規範的側面」の教育や研究が大きく欠落していることを知ることでもありました。

 私は、いつか高橋先生に堂々と反論することを秘かに心に誓っていました。それには「生半可なこと」では歯が絶たないとの思いから、先ずは国が認める資格としての「法曹」になることを決意しました。それが、今日の「薬学をベースとした弁護士」の始まりだったことを、ずっと後になって気付くようになりました。

 1977年に最高裁判所の司法研修を経て、1979年に弁護士登録をしました。以来30年余り、薬学の素養の上に、専ら医療ないし医薬品のサイドに立ち、医療ないし医薬品のために建設的に業務を遂行してきたつもりです。

 かつての漠然とした薬に対する思いは完全に払拭され、今では確信的に「薬は人類の貴重な知的財産」と思えるようになりました。その間、薬学の科学的側面と規範的側面のトランスレーショナル・リサーチ的な研究によって1990年に東京大学から薬学博士の称号を授与されました。

 私は、薬学と巡り合えて、とてもラッキーだったと思います。何度も辛いときがありましたが、よく「降り止まぬ雨はない」と口ずさみながら我慢して乗り切ったものです。つくづく「人生はマラソンだ」と思います。人生にはいろいろな選択があると思いますが、少なくとも薬学は、自分の一生を捧げるに値するものだと言えるのではないでしょうか。

 半世紀前の医薬品は化学合成品が主流でしたが、今や薬学はバイオテクノロジーも含めて飛躍的に進歩し続けています。抗体医薬などを始めとする新しく創製される医薬品が、今後の医療の中でますます重要な存在となることは疑いありません。この魅力ある薬学の場において、意欲ある若い人たちが活躍することを願ってやみません。