トップページ > 薬学と私 > 奈良西部病院トラベルクリニック 担当薬剤師 櫻井眞理子先生「海外渡航者の健康を守る渡航医学の普及を目指して」

薬学と私 第58回

 英語で旅行を表す『travel』の語源は骨折り・苦労の『travail』なのだそうですが、昔の人が旅をするということは命がけで大変な苦労が伴うものだったようです。
 航空機やその他の交通機関の発達により、海外渡航はとても身近なものになりましたが、それにともない渡航中の健康トラブルを予防するために注目されているのが渡航医学(travel medicine)です。
 欧米諸国では1970年代から、この渡航医学の診療部門であるトラベルクリニックが数多く設置され、海外渡航者への健康指導、予防接種や予防薬の処方、帰国後診療などを担っています。日本でも1990年代以降、世界のあらゆる地域に旅行したり赴任したりする海外渡航者が増えたため、「日本渡航医学会」が設立され、その健康対策の普及に努めています。

 私は1980年に京都薬科大学を卒業し、夫の病院で病院薬剤師として仕事を始めました。私が入職する以前のことですが、海外渡航時にコレラや天然痘の予防接種が義務化されていた時代があり、当院では1964年から国際予防接種証明書を発行していました。その後その制度はなくなりましたが、2000年頃から時代の流れに伴い、渡航のために必要な予防接種の相談を受ける機会が増えてきました。
 『パキスタンに赴任しているご主人に会いに行くにあたって現地から狂犬病ワクチンを受けてから来るように言われた』とか、『アメリカの大学に留学するのに英文診断書や予防接種証明書が必要』などなど。
 そのような依頼に対応しているうちに、色々なことがわかってきました。例えば狂犬病ワクチンの接種方法には何種類かあること、海外の予防接種に対する考え方は日本と全く違っていて種類も接種回数も多く、幼稚園や学校の入学時に接種証明が必要であることなどです。ただ、渡航者に対する予防接種はまだ一般的ではなく身近に得られる情報が少なかったので、もっと知識をつける必要性を感じていました。
 そんな頃、奈良市医師会主催の研修会に名古屋の名鉄病院予防接種センターの宮津先生が講演にこられました。海外渡航者への予防接種で全国有数の実績をお持ちの先生です。それをきっかけに先生から直接ご指導を受ける機会を得て、当院なりの予防接種マニュアルを作ることができました。また日本渡航医学会についても教えていただき早速入会、その道のエキスパートのお話を拝聴できるようになりました。医師・看護師など医療職だけでなく、海外へ職員を派遣している企業や旅行業者の方なども参加されており、渡航医学が多岐にわたる分野を扱う学問であることを実感しました。

 2007年5月、カナダのバンクーバーで国際渡航医学会の学術大会が開催予定で、Certificate in Travel Health(CTH)という渡航医学についての認定試験があることを知り、わからないなりにも学会参加、認定試験にも挑戦することにしました。
 申込みサイトのいくつかの例題とアメリカ疾病予防管理センターが編集している渡航医学に関する解説書(通称イエローブック:ネットでも公開)を参考書にして会場に乗り込みました。
 問題は4択の200問、制限時間は4時間半。英語が母国語でない受験者には印刷物の辞書の持ち込みが許されました。1問にかけられる時間は約1分。内容は、渡航に際した感染症予防(ワクチン、予防薬、防虫対策、飲食物に対する注意)、移動時の健康問題(航空機内の気圧や湿度、時差)、高地や寒冷地、熱帯地方における健康問題、スキューバダイビングの際の問題、渡航時のメンタルヘルス、緊急時対応、渡航後の診療問題など多岐にわたります。私には英語の問題文を読み切るだけでも大変で、終了時にはフラフラになっていました。解答は公表されませんが、その後の学術大会で答えがわかったものもありました。この時は残念ながら不合格でしたが、渡航医学を勉強するためにはとてもいい試験だとわかりました。その後日本渡航医学会でも認定制度ができ、学会の先生方による事前の講習会もあり、こちらの方は無事初回の試験で合格しました。
 国際渡航医学会は2年毎に開催されており、次のブタペスト大会でCTH認定試験に再挑戦、晴れて合格することができました。

 現在当院に渡航前の相談にこられる方の多くは予防接種希望でこられていますが、渡航先によっては高山病やマラリアの予防薬が必要になります。
 最近人気の南米マチュピチュ遺跡やウユニ塩湖観光では、富士山頂より高い空港に降り立つことになるので、高山病予防が必要です。アマゾンなどの熱帯地方ではマラリア以外にも蚊が媒介する病気はたくさんあるので、まずは蚊にさされないための対策なども説明しています。
 渡航医学をやっていて楽しいのは、相談に乗りながら、あたかも一緒に旅行にでかけるような気持ちになれることだと思います。渡航先から相談のメールがきたり、帰国後の健康診断に来られた時には現地の生の情報を教えてもらえたりすることも楽しみになっています。
 ただ残念ながら、予防接種の必要性を知らないまま渡航し、現地で病気になってしまう日本人が多く、国際渡航医学会でもその問題がたびたび指摘されています。
 そこで、人々にとって身近な町の薬局やドラックストアの薬剤師の方々にも、渡航医学を広める役割を担ってほしいと考えています。
 欧米では、薬局やドラッグストアでも予防接種ができたり、渡航相談を受けたりすることはよくあることのようです。日本でも、渡航準備で薬局に風邪薬や日焼け止めなどを買いに行く人は多いと思うので、お店の薬剤師さんに渡航医学の知識があれば、渡航先に応じた健康指導をしたり、予防接種や予防薬を勧めることができるでしょう。発熱や下痢症状で薬を買いにきた人がいれば渡航歴の有無を確認することで、重症化を防げたり大流行の恐れのある輸入感染症*の早期発見ができるかもしれません。
 また高血圧や糖尿病など持病のある人が、持参薬や現地での薬の入手方法などについて薬局で気軽に相談できれば、渡航時の不安も少なくなることでしょう。
 日本渡航医学会では薬剤師会員はまだ少数派ですが、今後はもっと薬剤師の仲間を増やしていき、海外渡航者がより安全に旅するお手伝いができればと考えています。興味のある方はぜひ一度日本渡航医学会のホームページを覗いてみてください。

*輸入感染症:海外で流行していて、旅行者や輸入食品等を通じて 国内に持ち込まれる感染症