トップページ > 薬学と私 > 認定NPO法人健康と病いの語りディペックス・ジャパン 理事 射場典子先生「医療者ががん患者となって」

薬学と私 第52回

 看護師として働き始めた頃、若くして亡くなられた1人の骨腫瘍の患者さんとの出会いを通して、自分の無力さを痛感し、以後ホスピスケアや緩和ケア、がん看護の学びを続けてきました。そんな私ががんと診断されたのは、42歳のときです。当時、健康そのものだった私は、「どうせ病気になるなら学んだことを自分の身をもって体験してみたい、だからがんがいい」なんて思っていたのです。しかし、その反面なぜか、まさか自分ががんになるとは予想だにしていませんでした。急激に生じた強い下腹痛で、異変に気づき、救急外来を受診。すでに14cmにもなった卵巣がんは腹腔内で破裂しており、そのまま緊急入院、翌朝手術を受けました。予想していなかった事態に現実のこととして捉えられず、「週末には学会があるので福岡に行くことはできませんか?」と医師に尋ねる始末でした。当時、私は看護大学の教員をしており、入院した病棟は奇しくも学生が実習でお世話になっていた病棟でした。病棟にいる医師や看護師は顔見知りですし、病棟の勝手はわかるし、夕方の緊急入院で迷惑をかけてしまうことがとても心苦しかったことを思い出します。その日からがん患者となり、新鮮な驚きや発見の連続でした。医療者として卵巣がんや治療に関する知識はあったにもかかわらず、患者として実際に体験したことは、自分が頭の中で理解していたこととはずいぶん違っていました。

 何が最も違ったのか。それは知識として知っていることと、体験することの違いといえます。例えば術後に持続硬膜外麻酔薬としてモルヒネが使われていました。術後1日目は術後の合併症を予防するため、早期離床が重要です。しかし、起き上がるとひどいめまいがして立ち上がることはできませんでした。むかむかと吐き気も続いていました。担当の看護師や研修医がモルヒネを止めるか尋ねてくれましたが、とにかく痛みに弱いので、術後の痛みで苦しむより、副作用があってもできるだけ痛みを止めておきたいと考え、そのままにしてもらいました。その結果めまいや吐き気はどんどんひどくなっていき、夕方、主治医が来るとなぜ止めなかったのかと怒られ、すぐに硬膜外麻酔は止められました。
 この状況は医療者として見ると、大変シンプルなことのように思えます。痛みを恐れる患者に対して、モルヒネで副作用があるから別の方法で痛みを緩和すればいいだけのことです。しかし、当事者となったとき、今、モルヒネで痛みが治まっているが、果たして別の薬で同じように痛みが治まるのか?副作用の辛さと創痛の辛さとどちらが辛いか?とにかく苦しいのは嫌だ…などと頭の中でぐるぐると思いが巡っていきます。同じような状況に医療者として何度も出会っていましたが、こちら側(患者側)になると、こうも不安で不確かな面持ちになり、どんな選択もダイレクトに自分の身に影響が及ぶ怖さを感じるものなのだと改めて思い知らされました。

 手術後には、抗がん剤治療が始まりました。治療を受けるにあたって、医療者としての知識は大いに役立ちました。しかし、抗がん剤の副作用でしびれが起こることがわかっていても、しびれを経験してみて初めてその不快な感覚や日常生活の不自由さが実感できました。医師からは「治療が終われば、しびれは収まる」と説明されましたが、「続くよ」と教えてくれたのは、大学院の同級生で数年前に抗がん剤治療を受けていた先輩患者です。その通り、今でも範囲は足先だけになりましたが、しびれは残っています。
 短い外来診察で主治医に一度もしびれのことを伝えたことはありません。なぜなら、取り立てて訴えるほどの苦痛ではないということと、抗がん剤投与中しびれが強かったときに漢方薬など飲んでもほとんど効かず、主治医に話してどうなるものでもないと思っているからかもしれません。主治医もあえてしびれのことを尋ねません。しびれはない(問題ない)と判断しているのだと思いますが、それでも私は毎日しびれとともに生活しています。
 医療者は患者のすべてを知っているわけではないのです。同級生の先輩患者には、経験に基づくさまざまなアドバイスをもらい、医学的には問題ないような些細な症状や生活への影響も彼女と共有することができたので、心強く闘病生活も過ごすことができました。

*(DIPEx=Database of Individual Patient Experiences)

 このように体験した人にしかわからないことがあると痛感していたとき、英国で始まったディペックスというプロジェクトに出会いました。このプロジェクトは、患者の語りをデータベース化しインターネット上で公開するものですが、一つの病気につき、年齢や性別、病状、家族背景などが異なる50名にインタビューし、病いを得ることの体験の多様性を紹介するところに特徴があります。日本ではディペックス・ジャパンのホームページで公開しています(http://www.dipex-j.org/)。患者の体験は一人ひとり異なります。私と同級生とで、異なる副作用が出たり、それを辛いと感じるかどうかなど当然のように違っていることもありました。
 ディペックスの主目的は患者・家族の支援ですが、医療者や医療系の学生が患者の語る生活や思いに触れ、よりよい医療を志すためにもぜひ見ていただきたいと思います。インタビューは自由に病気や治療の体験を語っていただきますので、医療者には話さない内容もたくさん出てきます。医療者が患者さんに接するのはほんの短い時間です。患者さんが医療者に見せるのもその人の病気に纏わるある一面であり、背後には仕事や家族、将来の夢などその人の生活・人生が広がっています。
 これから薬剤師を目指す皆さんにお願いしたいのは、患者としてひとくくりで見るのではなく、1人ひとりに生活があり、家族があり、それぞれの人生を歩んでいることを忘れずに、患者さんに向き合っていただきたいということです。そして、患者さんの言葉は情報の宝庫です。患者さんから学ばせていただくという真摯な姿勢で耳を傾けてほしいと思います。薬学を学び、将来創薬に携わる方々には、常に薬を使う「人」や「その人の生活・人生」の存在を忘れずに、何が薬の開発に大切なことか常に考えながらよりよい薬の開発に取り組んでいただきたいと願っています。私のがん体験が少しでも皆さんへのエールとなれば幸いです。