トップページ > 薬学と私 > バイエル薬品株式会社 広報部長 島崎眞 氏 「いろいろな可能性にチャレンジ」~医療情報媒体としての薬学考~

薬学と私 第12回

 毎年、いくつかの大学で医薬品広報の講義をさせていただきますが、いつも、「XX薬とかOO剤といった類で思いつくものを挙げてください」という質問から始めます。すると、誰もが決まって、風邪薬とか鎮痛剤、抗がん剤など医薬品の類を挙げます。しかし、農薬、接着剤、発色剤、入浴剤など、薬は必ずしも医薬品に限られるものではありません。共通して言えることは、すべて人生を楽にするもの。クサ冠に楽と書いて「薬」。言わば人の生活を楽にしてくれるものが「薬」なのだと私は解釈しています。実際、近年市場に登場する薬は、バライエティに富んでいて、必ずしも病を治すものだけとは限りません。非浸潤的に病変を特定する画像診断薬、更年期障害の諸症状を緩和するHRT剤、脳卒中を予防する薬、あるいは難病の進行を抑える薬など様々です。これらはすべて、QOL(生活の質)の維持または改善という立場に立って開発された薬剤です。因みに、「患者」は、「心に串を持つ者」。しっかりと、患者さんの心に刺さった串を抜くことができる新薬を創りたいものです。

 小学校の頃から理科が好きで、よくいろいろなものを混ぜて遊んでいました。最も印象的だったことは、重曹とお酢を混ぜたときです。まさしく科学反応と称せるこの大実験は、小学生の心に深くその印象を刻みつけました。そしてその流れで薬学部に入学し、大学院を出て、大学教員、製薬企業の研究者という道を歩み続けてきましたが、今は広報と言う、まったく異次元の世界で仕事をしています。子どもの頃は理科の先生になることを夢描いていました。今、改めて考えますと、学校の先生と広報の仕事は合い通じるところがありますので、なるべきしてなった職なのかもしれません。新薬が発売ということになれば、これまでの治療法と比べて何が違うとか、どのような作用機序で効くのかとか、どんな有害事象が報告されているのかなど、報道関係者に分かりやすく説明しなくてはなりません。時として、疾病啓発を行うこともあります。今では、インターネットを調べると、たくさんの医療情報サイトが見つかります。しかし、残念ながら誤った情報も多く存在しますので、正しい情報を伝えなくてはなりません。

 この世の中、リスク(危険性)がゼロということはありません。多くの人が車を運転し ていますが、皆、交通事故というリスクを背負ってハンドルを握っているはずです(意識 している人は少ないと思いますが)。薬も同じことが言えます。副作用の無い薬はありま せんので、有効性に対する期待値がどれだけ副作用リスクに勝るかを測るという感覚が重 要です。よく、副作用だけにフォーカスした記事が掲載されることがありますが、副作用 報道の怖いところは、その薬を服用し、しっかり病勢を管理できている患者さんが副作用 を恐れるあまり服用を自らの判断で中止してしまうことです。その結果、病勢が進行し命 を落とすこともあります。薬に関する記事を読む際には、有効性と安全性の両方の面から 考えることが不可欠で、どのようなリスクがあって、それを上回る治療の期待値がどれく らいあるかを知って治療法の選択をすることがいかに大切かということを是非とも広めて いきたく思います。

 松木前会頭のインタビュー記事でも触れられていましたが、理科が好きになるか嫌いになるかは、小学校の時にどれだけ理科の実験に触れられたかによると私も思います。私の小学校時代の担任は興味深い理科実験を頻繁にさせてくれました。火のついたアルコールランプを倒すとどうなるかという実演は、40年経た今でも私の脳裏に鮮明に焼き付けられています。恐らく、今の小学校で同じことをすれば大問題となることでしょう。今の私があるのも、この先生のおかげだと感謝しています。最近では、PCがどの家庭にもある時代となり、子どもたちの遊びもTVゲームが主役です。それゆえ、仮想空間で生活することが増え、理科の実験までもがCG化されています。ビジュアル化された教育は知識の向上には役立ちますが、100%成功する実験からはとっさの判断能力や創意工夫の能力を学習することができません。自然科学では失敗から学ぶことも多いので、是非とも生の理科実験ができる環境に子どもたちを置いてほしいと思います。「人は死んでも教会に連れて行けば生き返ることがある」と思っている中学生が2割もいる、そんな「不自然科学」にだけはならないことを願います。近々、薬の教育が中学校のカリキュラムにも導入されると聞きました。理科離れの解消、医療知識の一般普及、そして正しい死生観教育のためにも、薬学から教育の世界に足を踏み出す方がもっと増えてもよいのではないかと思っています。教育は、必ずしも教壇に立つことのみを意味するわけでなく、様々なメディアを介するジャーナリストや広報担当者の仕事にまで広がりを持つものです。

 先日、「科学コミュニケーター」という肩書きの名刺を持った方とお会いしました。医師や科学者が普段なにげなく使っている専門的な会話を、一般の方にも分かりやすく「通訳」する仕事です。患者支援団体の方からよく、「医師の説明を通訳してくれる人が欲しい」ということを聞きますが、確かに、難しい病気の場合には患者さんが治療法を複数の選択肢から選ばなくてはならないことがあります。安易にインターネット情報を鵜呑みにせず、有効性と安全性に関する医師の説明内容をしっかりと理解して自ら結論づけたいものです。分子標的薬やバイオ医薬品の登場で複雑化する医療情報。今後、「医療または科学コミュニケーター」の必要性は高まるのではないでしょうか。

 薬学の出身者は、薬剤師や創薬研究者以外に医療情報の媒体となる道もあることを述べてきました。進路を決めかねている学生の皆さんは、固定観念に囚われず、幅広い視野を持ち、是非ともいろいろな可能性にチャレンジしていただきたく思います。