トップページ > 薬学と私 > 下村脩 先生 「どんなに難しくても諦めるな」

薬学と私 第1回

どんなに難しくても諦めるな 「薬学」との出会い

 私の幼少時代の夢は魔法の絨毯に乗って空を飛ぶことでした。中学(旧制)時代には飛行機や船の設計者に成りたいと思いました。しかし戦争と戦後の混乱で自分の思うようにはなりませんでした。希望どおりにならないどころか、どこの旧制高等学校や専門学校にも入学することが出来なかったのです。しかし、3年近い浪人生活のあと、原子爆弾で破壊された長崎薬専(長崎医科大学付属薬学専門部)の仮校舎が偶然に私の家の近くに移転してきて、私はそこに入学することができました。薬専入学は私の希望ではありませんでしたが、他に選択技が無かったのです。そして薬専入学が私を化学に導きました。

 長崎薬専仮校舎での教育環境は非常に貧しいものでした。普通に習ったのは無機分析と物理化学くらいでした。しかし、その頃身につけた無機分析の知識は後に生物化学の研究で非常に役立ちました。知識と経験は多い方が良く、どんな知識でも、それをしっかり身につけておけば意外に役立つものです。

研究への思いや苦難

 私の研究人生を顧みますと、私が選んだ道と主な研究課題は自分で探したのではありません。私は師により示された道をたどったのです。それは私が長崎大学薬学部の助手であった1955年、安永峻五教授が私を名古屋大学理学部の平田義正教授の研究室に内地留学させて下さったのに始まります。平田先生は私に当時極めて困難であるとされていたウミホタルルシフェリン結晶化のテーマを下さり、私は生物発光研究の道に入りました。そしてウミホタルルシフェリンの結晶化に成功した結果、プリンストン大学のF.H.ジョンソン教授に招かれてオワンクラゲその他の発光生物の研究を始めました。従って、私は三人の恩師によって示された道をたどったのであります。しかし、その道をたどるのは容易ではありませんでした。

 生物発光の研究では未開拓の部分が多く、新しい仕組みの発光生物を研究するための方法論は未だ存在しません。従って新しい仕組みの発光生物を研究するためには、先ず研究方法を開発或いは創造しなければならず、その過程では必ずと云ってよいほど壁に遭遇します。しかし現代の科学者は一般に云って、既知の知識を発展し、応用するために教育訓練されていて、創造性に乏しく、壁を突き破るような仕事には適しないことが多いようです。そういうわけで、他人の協力や助けを期待することができないので、私は殆んど一人で研究しました。

座右の銘「艱難汝を玉にす」「どんなに難しくても諦めるな

 私の座右の銘は「艱難汝を玉にす」注)と「どんなに難しくても諦めるな」でしょうか。前者は文字通りですので後者について述べます。私が最初に直面した難しい問題は平田先生から頂いた研究テーマであるウミホタルルシフェリンの精製と結晶化でした。プリンストン大学でその20年前から努力していて、解決できなかった難問です。私は精製したルシフェリンを結晶化しょうと、10ヶ月間色々の条件で努力しましたが成功しませんでした。

 ところが、ルシフェリンのアミノ酸分析をするために濃塩酸を加え、そして加熱する前に放置しておいたら結晶化してしまったのです。また、オワンクラゲから発光たんぱく質イクオリンを抽出しようとした場合には、種々の酵素反応の阻害劑を使って発光反応を止めてからイクオリンを抽出しようとしましたが、どうしても成功しませんでした。しかし、溶液のpHを調節することによって発光を止めることができることを発見し、イクオリンの抽出に成功しました。

 難しくて解決出来ないからと云って諦めないようにしましょう。難問の解決策は往々にして予想外の簡単な所にあるものです。

2010年ノーベル化学賞受賞(鈴木章先生,根岸英一先生)について そして若い人たちへのメッセージ

 鈴木章先生と根岸英一先生の立派なご業績を考えますと、ノーベル化学賞は当然で且つ納得のいく授賞だと思います。これで21世紀の最初の10年間にノーベル賞を受賞した日本人科学者は9名となり、それは国際的にも自慢できる数字です。しかし、日本人科学者のノーベル賞受賞が今後もこの調子で続くと考えている人がいたら、私はそれは間違いだと思います。というのは、この10年間の日本人受賞の多くは、数十年前に、日本がまだ貧しかった時期に得られた業績に対する授賞であるからです。

 現在の日本の若者が甘受している裕福な生活や優れた研究環境は、科学研究者にとっては「両刃の剣」であります。それらは研究を促進することができますが、一方では研究者をハングリー精神の無い怠け者にすることもできます。私は若い科学者が現在の恵まれた環境を有効に使って欲しいと思います。恵まれた環境がもたらすネガチブな面をよく理解し、気を引き締めて今以上に努力して、ノーベル賞受賞が将来も続くよう頑張って欲しいと思います。ノーベル賞は幸運でないと貰えませんが、ノーベル賞クラスの成果をあげることは、誰にでも努力すればできる筈です。努力なしでは幸運はあり得ません。

注)「艱難汝を玉にす」
「人間は,苦労・困難を乗り越えることによって,立派な人物になる」の意