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タカヂアスターゼ

タカヂアスターゼ
日本の伝統的醸造技術と高峰譲吉の魂が生んだロングセラー

高峰譲吉とスコッチと麹かび

 日本が生んだ偉人の一人として称えられる高峰譲吉博士。彼は、1854年、富山県高岡市に医師の息子として生まれました。母親が日本酒醸造元の出だったという背景の下、若い頃から醸造技術に高い関心を抱いたことが彼を偉業に導くきっかけとなります。学生時代に成し遂げた醤油の乾燥技術は、その後の日清・日露戦争でも役立ったそうです。3年間の英国留学から戻った高峰譲吉は、農商務省工部局勧工課の技師を拝命します。西洋技術を一刻も早く導入させることが時流であった当時、彼は日本古来の伝統的な発酵産業は勿論、藍染めや和紙などにも科学のメスを入れ、何か真新しい事業を起こすことに情熱を注ぎました。今でいえば極めてベンチャー精神旺盛な方だったようです。西洋技術の導入ならばそれを熟知している西洋人を採用した方が手っ取り早いと新入りの身分でお偉方に言ったというエピソードもあります。

 そんな開拓魂をもった高峰譲吉と麹かびの話は、スコットランドのグラスゴー大学への留学から始まります。スコットランドといえば、スコッチ・ウイスキー。かなりの酒好きだった譲吉にとっては願ってもない留学先でした。しかし、彼はただ単にスコッチを楽しむだけに留まらず、その醸造技術にまで注意を払いました。スコッチの醸造には麦芽の酵素を使いますが、原料の大麦の栽培には半年もかかるのが難点だという声を譲吉は耳にします。さらにそれを発芽させて加工して麦芽は作られますので結構手間暇がかかるのです。これを日本酒の麹で置き換えてみてはどうであろうかという発想が彼の頭にひらめきました。このアイデアが基となり、1887年、譲吉初の外国特許「麹によるアルコールの製造法」が英国で成立します。翌年にはフランスとベルギーで、1889年には米国でも成立。このことが、譲吉の人生を大きく変えることとなります。

百難続きの幕開けとなった米国生活

 米国での特許成立の5年前、高峰譲吉はニューオリンズで開催された万国博覧会の事務官として渡米します。この時、下宿先の娘キャロラインとの恋に落ち、1887年に結婚。その後、キャロラインを連れて日本に帰ります。このキャロラインをどうにかアメリカに呼び寄せたいと考える母親は、譲吉の特許をシカゴのウイスキー・トラスト社に売り込もうと考えました。そして、その企みがまんまと成功し、譲吉はウイスキー・トラスト社から呼ばれることとなります。生まれたばかりの年子の息子ふたりを連れ、また麹造りのために丹波杜氏の藤木幸助氏を伴って再び渡米したのは1890年11月のことでした。そして、これが、「百難に遭遇した米国生活」と譲吉に言わしめた苦難のはじまりでした。

 譲吉は、シアトルに向かう船中で肝臓を悪くし、到着と同時に入院という目に遭います。ようやく快癒した譲吉はウイスキー・トラスト社があるシカゴに移り、麹かびを使った醸造法の工場生産規模への応用を検討しはじめます。そして、いよいよ工場生産に入ろうとした矢先に放火と思われる火災でペオリアの工場を失ってしまいました。麹法でやられては適わぬと反対していた、大麦からの麦芽製造業者による仕業だと考えられています。この問題は、麹作りに職工を雇うことで解決しましたが、運悪く麹法に理解があったウイスキー・トラスト社の経営陣が替わり、麦芽製造業者主体の経営者にトラスト社は抑えられてしまったのです。そんな災難が続いたため、譲吉の生活は窮地に立たされてしまいます。

タカヂアスターゼの誕生

 デンプン分解酵素の開発は日本を発つ前から構想されていたようです。米デンプンを先ず液化して糖化し、そして発酵。液化酵素と糖化酵素の概念はすでにあったといえます。麹の輸送についても、胞子を篩で集めて乾燥剤を入れて運ぶ方法が考案され、さらに米の代わりにアメリカで豊富にある小麦粉を製造する時の副産物である麦の皮「フスマ」を使えばよいこともわかりました。これは極めて安価で1年中豊富にあり、しかもカビの生育に必要な栄養素は全て含まれていて、実際このフスマで培養してみるとカビの生育はすごくいいし、酵素生産も米麹の数倍と極めて高いことがわかっています。また、酵素の抽出も水で簡単にでき、フスマ自体が多孔質であることも幸いしてろ過が容易であるため、この麹培養法は100年以上たった現在でも世界中で採用されています。

 当時、麦芽由来のジアスターゼが消化剤としてパーク・デービス社から販売されていました。しかし穀物由来の酵素は大体において酵素力も弱く不安定なのが欠点でした。そこに麦芽由来のものに比べて約20倍も酵素力の強いタカヂアスターゼが安価に持ち込まれたのです。はじめこそ、日本の技術を見下していたパーク・デービス社も、その驚くべきパワーを目の当たりにするにつれ、譲吉に独占販売権を要求し、彼を顧問に迎えいれました。ところが譲吉は、この酵素を消化剤のみに販売を限定するつもりは毛頭なく、アルコール製造は勿論、ビールや食酢などの醸造、製パン・製菓などデンプン分解酵素としてのいろいろな用途を考え、それら用途への販売は別会社で行うことを考えていました。それを知ったパーク・デービスの社長は驚きましたが、それらも同社でやるからと譲吉の望みを叶えてしまいます。未だ酵素について知識が殆どない時代だからさぞかしその社長の目には酵素が魔法の杖のように思われたのでしょう。

近代バイオテクノロジーの父

 タカヂアスターゼが発売されたのは、1895年の夏以降のこと。そして譲吉がその対価として大金を得たのは1896年の春先です。(著者が先輩方より引き継いだ最古の注文書は1897年1月9日づけのものである)。なお、譲吉が埋葬されているニューヨーク・ウッドローン墓地の案内には、譲吉の功績を次のように讃えている。

「1896年にデンプン分解酵素を開発し“近代バイオテクノロジーの父”として認めらる。1900年には世界初の科学者としてアドレナリンを分離し、1912年にはワシントンD.C.の河畔を美化している有名な桜の木を寄贈した」。

今、世の中で、100年以上の間、利用されている薬は3つしかない。タカヂアスターゼ、アドレナリン、アスピリン。そのうち2つが譲吉の功績である。

高峰譲吉を描いた映画「さくら、さくら」:http://sakurasakura.jp/