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過去のハイライト

 日本電産の社長、永守重信さんは経営の神髄を「情熱、熱意、執念」と喝破されています。いま創薬に携わる人に求められているのはこの「情熱、熱意、執念」ではないだろうか。永守さんは自社の成功秘密をこう述べています。「わが社はアホが集まっている会社だったので、難しい仕事の注文が来ても“それが出来ない”ということがわからなかったのです。ただひたすら執念と情熱を燃やしてやっていたら今日のように大きな会社になっていました」。私は永守さんの講演を聞いたとき「わが意を得たり」と喝采したものでした。
 ドネペジル塩酸塩(商品名アリセプト、以下ドネペジル)の成功はこの永守さんの話と大変よく似ています。もし私が薬理の専門であったらアリセプトの成功はなかったかもしれません。アセチルコリン受容体は消化器系を中心に全身に多く存在しています。アセチルコリンを増やす薬剤が開発されてもその化合物は脳内に留まっているわけではありません。血液に入って全身を循環することは自明ですね。すると全身にある受容体に作用して副作用が多く発現してとても薬にはならないだろうといわれたものでした。私はバカだからその辺の事情がよく飲み込めなかったのです。ただがむしゃらに研究を推進してきたら成功してしまったというのが実情です。 

 若い頃の私の研究における夢は3つの新薬を開発することでした。今から思えば大変大胆な夢であったと思います。一つ目の新薬開発の成功は30代のはじめころに実現しました。ファイザー社が世界に先駆けてα1受容体の拮抗薬塩酸プラゾシン(商品名 ミニプレス)の開発に成功しました。その構造式を見たときに大変ドラッグライクな構造だなと感じたのでした。プラゾシンのピペラジンの部分を七員のホモピペラジンに変えてみたところプラゾシンに負けない強い降圧作用がありました。塩酸ブナゾシン(商品名 デタントール)の誕生です。ブナゾシンはエーザイの自社品による海外進出の第1号にもなりました。また緑内症の治療薬として導出にも成功したのでした。ブナゾシンの合成は私一人でした。合成した数も60個にもみたないもので成功したのです。ブナゾシンの開発の成功のお陰で私みたいなものでも研究ができるかもしれないと自信を持たせてくれた貴重な体験でした。

 その後私は研究の目的を循環器領域から脳神経系の領域に変えたいと考えるようになりました。その理由は私の母が脳血管性の認知症になったことが大きな要因でした。私は9人兄弟姉妹で8番目に生まれました。戦後の食べ物が無い時代を母は艱難辛苦を乗り越えて私達を育ててくれました。私は母の過酷なまでの人生を子供ながらそばでいつも見てそだったので「絶対親孝行をするぞ!」と固く心に誓って大きくなりました。ある日衝撃な事件が起きました。私が母を訪問した時、母は私に向かって「あんたさん誰でかね?」と聞かれたのです。私は驚きながらも「息子の八郎ですよ」と答えると、母は「あーそうですか私にも八郎という息子がいるんですよ、同じな名前ですね」。このときの私のショックは大きなものでした。息子が母に親孝行を認めてもらいたいうことではなくて、もはや母と子供の心の交流が無くなってしまったことが悔しかったのです。そのときに「よし!なんとしても母のために認知症の薬をつくるぞ!」と心に固く誓ったのです。この気持ちは以後の私の創薬の背骨になっています。

 始めは母が脳血管性認知症だったことから、脳血管性認知症のくすりを開発しましたが、残念ながら第1相臨床試験で副作用のために失敗しました。次に手がけたのがアルツハイマー病(AD)治療薬の開発でした。それはコリン仮説に基づくもので合成研究の手がかりはタクリンの誘導体からスタートしました。しかし合成したタクリンの誘導体はみな毒性が強くてタクリンからの合成展開は断念せざるをえませんでした。そんな時に私のグループでは高脂血症の薬の研究もやっていましたが、その中のひとつの化合物がアセチルコリンを増加することを偶然発見しました。このシーズの偶然の発見がドネペジル創製の端緒となりました。そのシーズから誘導体を約700化合物を合成しました。その中に世界最強と思われる化合物を得ることができたのです。
 しかしこの化合物は臨床試験の直前にイヌの肝臓ですみやかに分解されてしまうことが判明したのです。3年間でようやくたどり着いたと思った化合物に思わぬ落とし穴があったのです。世界最強の化合物はイヌの体内動態の実験で生物学的利用率(bioavailability)が2%しかなかったのです。 当然臨床開発の研究者は猛反対でした。臨床開発サイドが認めないものを進めることはできないということで本プロジェクトは断念しました。
 しかしどうしてもここで諦めることはできませんでした。プロジェクトの名前を変えて再出発をすることにしたのです。私たちの課題は唯一生物学的利用率の改善でした。肝臓で分解されにくい化合物を得るまでは悪戦苦闘の連続でここがドネペジルの開発で最大の難所でした。ドラッグデザインではアミド結合をケトンに変えさらにそれを環状にしたインダノンに変換した化合物ドネペジル(開発略号:E2020、商品名:アリセプト)でした。ドネペジルはイヌにおけるbioavailabilityは60%、ラットでは40%という値でした。これは当初予想していた値を上回るものであったのです。代謝的に非常に安定な化合物で臨床試験において一日一回の投与を可能にした優れモノです。

 ドネペジルはいまやAD治療薬のゴールドスタンダードになっています。しかしADを根本から治すものではなく対症療法なのです。いま私はADの根本治療薬の開発を目指しています。定年後京都大学薬学部にエーザイの寄付講座「創薬神経科学講座」の教授として赴任しました。ここで京大の学生と一緒に成功への道を目指したのですが学生だけでは難しいことを知り京都大学発の創薬ベンチャー(株)ファルマエイトを立ち上げました。東工大の高橋孝志先生(現横浜薬科大学教授)と挙動研究の結果、臨床試験を目指せるところまで来ています。さらに昨年、同志社大学脳科学研究に移りここでも新たなテーマでADの根本治療薬の開発を目指しています。

 高校を卒業後エーザイに入社して、その間、中央大学理工学部の夜間部に入り働きながら勉強をしました。若いころは詩人か小説家を夢見る人間でした。20代のころは組合活動にのめり込み、その後剣道に夢中になりました。くすり造りの研究に携わって52年になります。今でも創薬の夢を追っているのは3つ目の新薬を早く患者さまに届けたい一心からです。