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過去のハイライト

 近年、医療・看護技術の高度化と並行して、先進諸国では人口の高齢化が進み、生きがいや働きがいの意味が問い直され、健康に対する関心が急速に高まっています。そうした中、医療という限られた場面だけでなく、広く食品や環境に貢献する領域として、薬学に対する期待が高まっています。医薬品は、優れた新薬の開発を通じて医療に貢献するだけでなく、日々の生活基盤を支え、人類や社会全体の幸福に貢献する大切な役割を担っています。当然に、産業としても、経済社会の中で大きな地位を占め、特に日本では、成長分野の一つとして注目されています。

 一方で、医薬品の開発・生産の過程では、人材、資金、情報など、多大な資源が長期にわたって投入されるため、経営資源の効率的運用や資金回収という観点から、経営的な視点による計画と評価が必要不可欠です。そのことから、ビジネスとして大きな機会であると同時に、倫理規範やコミュニケーション能力が厳しく求められます。薬学自体が、生物、化学、物理、数学など、幅広い基礎科学の上に成立するものですが、薬学へのニーズの高度化と多様性に対応していくためには、理科系の資質だけではなく、当然に文科系の幅広い知識の体系を個々人が習得しておくことが必要になります。

 製薬企業をリードする薬学出身者に求められる素養では、薬学を学ぶ人たちに求められる文科系の素養とは何でしょうか? まず第一は、倫理観。薬学が人間の幸せに貢献する一方で、生命に直接的に関わる以上、強い倫理観が求められることは当然でしょう。健康への関心が高まっている背景は、薬学に従事する企業にとって、大きなビジネスチャンスであることも意味していますが、そこでも、金銭的対価だけでなく、人間社会への貢献という広い視点が大切になります。社会的倫理規範を自らに課することは、今まで以上に重要ですが、理系の専門知識を深く研究することと、広い規範的視点を両立するカリキュラムは、机上で考える程容易ではありません。

 二番目として、経営スキルが必要になります。特に新薬の開発プロセスは、長い時間を要するので、ビジネスとしての成否を見極め、適切な意思決定を下していくことが、プロセス全体をマネジメントしていく上で不可欠です。しかし、この、マネジメントを行うためには、学問体系で言えば、財務、会計、マーケティング、オペレーション、意思決定、経営戦略、組織人事などの基礎的な知識を身に付けた上で、それらの知識を融合させて実際の状況に応じて使い分けていくことが求められます。ビジネススクールでは、状況に応じて知識を使い分ける能力を経営スキルと呼びますが、経営スキルの習得は、従来の薬学部のカリキュラムの範囲の外側と考えられてきたと思います。

 三つ目に必要な素養は、広く深い人間性です。文化・歴史・哲学といった学問に立脚した人間観と言っても良いかもしれません。文科系の知識や経営スキルを学んだというだけでなく、それを基盤として、周囲の人を方向づけ、コミュニケーションを図り、動機づけ、ときには方向性を正していく、そんなリーダーとしての人間性、と言って良いかもしれません。

   しかし、当然に、これらの素養は容易に身に付くものではありません。倫理観や経営スキルは、座学だけで習得できるものではなく、経営の場面に身を置く中で、OJTを経て各人が体得していくというのが一般的な考え方かもしれません。端的に言えば、職務経験を重ね、いくつものプロジェクトに関わる中で、体験的に身に付いていくという考え方です。特に日系企業では、長期的な雇用慣行も影響して、各社が社内の人材育成の中でこうした素養を育成していくと期待されているケースが多く見られます。広く深い人間性も、大学の学部で一般教養が課されているにも関わらず、経営陣に加わろうという年齢になって、改めてその大切さが指摘される場面をしばしば目にします。今まで、日本的なビジネス慣行が世界に通用していた時代には、そうした日本的な考え方が通用したかもしれません。端的に言えば、薬学に従事する者がビジネス感覚を求められるのは、管理職に就く年次、あるいは経営管理へのキャリアチェンジの場面に直面してからで充分であったのかもしれません。

 しかし、薬学を含めて、ビジネスの領域は急速にグローバル化しています。欧米では、20代の若手人材の多くがビジネススクールで学び、経営スキルや倫理を幅広く学んでからビジネス界のリーダーとして活躍しています。アジアでも、中国、韓国、インドなどで、世界トップレベルのビジネススクールが増え、そこで学ぶ学生が急増しています。このことは、日本に比して、若い世代で基礎的な経営スキルを身に付けた人材が多く育っていることを意味しています。当然に、新薬開発などのプロジェクトにおいても、彼らが重要な役割を果たすことになります。市場や競合を見据え、資金や人材の有効活用を図りながら、プロジェクトをリードしていく上で、経験ばかりを重視するのでは、グローバルな競争では不利と言わざるを得ません。薬学領域の研究者にも、当然に経営感覚が求められ、しかも若手のうちからそうした感覚を身に付けていることが、グローバル化が求める必然の要請です。そのためには、若い時、できれば20代のうちに、ビジネス最前線で役立つ基礎的な経営スキルを身に付けることが必要になります。ビジネススクールで学ぶことは、グローバル化に対応していくために有効な一つの方策です。

 本年4月から慶應義塾大学は、薬学部と大学院経営管理研究科(通称 KBS)のジョイント・ディグリー・プログラムをスタートしました。薬学部で4年の課程を修了し、一定の条件を満足した者は、KBSの入試を経て2年間でMBAの学位を習得し、その後、薬学研究科修士課程に進学し、最短1年間で薬学修士の学位を取得するというプログラムです。3年間の学習で2つの修士学位を得ることが可能になります。MBAとして前述の素養を身に付けた薬学研究者を社会に輩出していくことを目的としています。

 理系の学部では、まずは専門分野の研究からスタートし、徐々に広い領域の研究にシフトし、研究活動のマネジメント、そして企業経営全体へとキャリアをシフトしていくことが一つの規範であったと思います。しかし、状況依存的に必要な知識を追加していくことでは、積極的なキャリア形成には十分とは言えません。学部や研究科という枠組みを超えた総合的な人材は、今日のグローバル化が求める1つの方向性となっています。その流れを先取りし、日本の薬学界に貢献するためにも、今回のジョイントディグリーは意義深いプログラムと考えています。